ヴァシリス・ツィツァーニス(1915-1984)という人は、作曲家でありブズーキ奏者、歌い手でもありましたが、プロデューサー的な資質の持ち主で、イオアンナ・ヨルガコプル(1915-1984)やソティリア・ベル(1921-1997)やアンナ・フリサフィ(1921-2013)、ステラ・ハスキル(1918-1954)らを世に送り出したことでも知られます。
中でも、本復刻編集盤CDで歌っているマリカ・ニーヌ(1922-57)は、それまでの音楽パートナーだったソティリア・ベルと別れてまで、ツィツァーニスがたっての願いで望んだ歌い手でした。その後、作曲家として、レベーティカからライカへの橋渡しとなるようなの音楽性を開花させたツィツァーニスの曲想に、マリカ・ニーヌが欠かせない歌い手だったことは想像に難くありません。
1949年から2年の間、夜毎アテネのクラブ、ファット・ジミーズで二人は共に歌い演じ、たちまち大きな評判を得ることになりました(本盤はその共演時期のSP録音を復刻したCDとなります)。が、このレベーティカからライカの時代の幕開けを告げるような二人の、そのパートナー・シップは、1951年の10月、ともにイスタンブールに招かれツアーした際、終わることになりました。互いに話合った末、二人は別々の道を進むことにしたそうです(で、いったい何があったんでしょうねえ…)。
勿論、ツィツァーニス無しで、その後も歌い続けたニーヌですが、ほどなく渡米を決心、1954年には新天地で歌い始めます(その時期の録音集は>こちら)。が、その米国で癌を患っていることがわかり、治療のため翌55年にはギリシャへ戻ることに。そして帰国後の癌治療中にも、名高いファット・ジミーズでのライヴ録音を残します(1977年にLP化、CDは>こちら)。けれどその2年後、35歳という若さで、彼女は亡くなってしまいました。
まあ、ツィツァーニスも、ニーヌも既婚者でした。二人の間に何があったのかは知りませんが、もし、マリカ・ニーヌがツィツァーニスの音楽パートナーであり続けたら、そんなに早く亡くなることもなかったんじゃないかと、ちょっとは、そんな風に考えてしまいますよね…。
ところで余談になりますが、ニーヌの一人目の結婚相手はアテネ在のアルメニア人男性でした。が、2次大戦後、ソヴィエト連邦の行った祖国帰還奨励に従い、ニーヌと息子ひとりを残して、アルメニアに帰ってしまいました。この時、アテネとテッサロニキのアルメニア系住民の約半分が帰還したそう。
で、帰還といえば、マリカ・ニーヌ自身、ギリシャ〜トルコの強制住民交換の折、スミルナの港からピレウスの港へ向かう航海のさなか、アルメニア人とギリシャ人の両親のもと、あの有名な?エヴァンジェリストリア号の船上で生まれたそうです。アナトリアのスミルナ(イズミール)は、トルコ人に加え、ギリシャ人とアルメニア人とユダヤ人が多く住んだ港街だったということで、なるほどそんなところから、スミルネイカ・ソングが生まれたことは納得できます。
それはともかく、ニーヌの二人目の夫は、アクロバットの軽業師だったそうです。その男は歌うこともしたので、マンドーラを弾き幼い頃から歌に親しんできたニーヌは、残された息子ともども一家で歌いはじめたことが、生業としての歌手デビューだったそうです。1944年のことでした。
1 ΘΑ Κάνω Ντου, Βρε Πονηρή
2 Τα Καβουράκια
3 Ό,τι Μου Κάνεις Θα Σου Κάνω
4 Ο Κόκορας
5 Κάτω Στο Γιαλό
6 Τα Βάσανα Μεσ ‘ Τη Ζωή
7 Το Βουνό
8 Ο Μήνας Έχει Εννιά
9 Απόψε Κάνεις Μπαμ
10 Παίξτε Μπουζούκια
11 Εύχομαι Και Στα Δικά Σου
12 Μπάλος
13 Σία Κι Αράξαμε