エマホイ・ツェゲ・マリアム・ゲブル、1923年アディスアベバの裕福な家庭に生まれ、6歳の時、スイスの寄宿学校に入学、西洋的な教育を受け、ヴァイオリンを学ぶ。10歳でエチオピアに帰国、その音楽的な才は皇帝ハイレ・セラシエの目に止まるも、ムッソリーニのエチオピア侵攻により兄弟を3人失い、両親とともにイタリアの捕虜収容所に収監される。
戦後、エジプトのカイロで、ポーランドの音楽家、アレクサンドル・コントロヴィッチに師事、その後、コントロヴィチとともにエチオピアへ帰国し、コントロヴィッチがハイレ・セラシエの近衛兵バンドの音楽監督に就任すると、そのアシスタントとして採用される。
けれど、当時のエチオピアには西洋クラシック音楽家はもとより、同じような志向を持った女性音楽家の存在も皆無、しだいに孤立感を強めていく中、ロンドンの名門音楽アカデミーにおいて助成金を得られることになったが、エチオピア当局から渡英の許可が下りず、深い絶望を味わった末、21歳の時、彼女は修道女となり、エチオピア正教の女性僧侶の称号として、“エマホイ”を名乗ることを許される。
が、水道も電気もない僻地での修道女生活は過酷なものであり、そこではピアノに触ることもかなわず、劣悪な環境の中で重病にかかり、アディスアベバの実家へ戻ることに。そこで彼女はピアノ演奏を再開し、ピアノ、ヴァイオリン、オルガンのための作曲も始める。
1960年代に入ると、エマホイはエチオピア王国の古都ゴンダールに移り住み、そこでエチオピア正教教会の宗教音楽を6世紀に生み出したとされるセント・ヤドレの音楽を研究することになる。そのゴンダールの街路で、正教の年若く貧しい修道士達が、食べ物や一夜の宿を乞うている姿をたびたび見かけた彼女は心を痛め、自分には彼らに与えるお金はないものの、何かしてあげられることはと考え、自らの作品をソロ・ピアノで演じたレコードを作り、それを売って、彼らの窮状を少しでも助けることはできないか、と、録音したのが、1963年のエマホイ最初の欧州盤レコードであり、その後、1970年と72年にも孤児院への寄付のためにレコード録音を残している。
1974年には、エチオピア革命が始まり、永きに渡って続いたエチオピア帝政は倒れ、社会主義独裁政権が誕生すると、エマホイのと彼女の家族は、その信仰と名門の家柄ため迫害を受けた。
1984年、母親の死後、エマホイはエルサレムのエチオピア正教の修道院に移り住み、時は流れ、今年エマホイは99歳を迎えている。
〜と、ざっと、そんな内容の略歴が、>こちらに書かれていました。
長くなってしまいましたが、なんだか、いろいろ苦労している人なんですね、そして、生涯に渡り音楽を中心に生きて来た人ということも伝わります。
で、本CDは以前、同じくMississippi Records からリリースされていた>編集盤アナログLPの同内容CD化ですね。曲としては、エマホイの名を世界に知らしめることになったCD>Ethiopiques 21 に既に全曲収録されているんですが、本CDの、この11曲の並び、実にちょうどイイ感じ?やっぱり、LPアルバムの収録時間というのは、通して聴いてジックリ楽しむのに、ちょうどイイというのは確かでしょうね。
それに、ジャケもイイですねえ、飾らず、何気なくもシックです。
基本、クラシックや正教ゴスペルの人なんでしょうけれど、いかにもエチオピアらしい民謡風のメロディーが耳に残る、ペンタトニックの小品っぽい曲が多く並んでいるところも、イイですねえ。加えて、一人、誰に聴かせるということもなく、ピアノの前に座り弾いている時間が伝わって来るような曲の並び、と、そんな風にも聞こえて…、当然、ひけらかすようなところ皆無、それどころか、聴き手不在の孤独なモノローグ、という雰囲気なきにしもあらず、です。
1 Mothers Love
2 Ballad Of The Spirits
3 Song Of The Sea
4 Homesickness
5 Golgotha
6 Jordan River Song
7 Garden Of Gethesemanie
8 Song Of Abayi
9 Story Of The Wind
10 Evening Breeze
11 Tenkou! Why Feel Sorry?
1-4 from the 1963 LP “Der Sang Des Meeres”
5-7 from the 1970 LP “The Hymn Of Jerusalem, The Jordan River Song”
8-9 from the 1996 “Best Of” CD