ヴーラ・パッラ、1929年コリントス生まれ、3歳の時に父を失い、ピレウスの修道女学校にで学び、そして故郷に帰り、正教会に通い農作業をして過ごす日々の中で、ヴィザンティン音楽に親しみ、民謡(ディモーティカ)を歌うことに目覚めたヴーラは、ほどなく作曲も始めたようです。1951年にイドラ島出身の男性と結婚、夫ともにタイヤ屋とガソリン・スタンドを営み、二人の息子を授かった生活の中で、ある日、ヴーラは自分で作詞作曲した歌をレコードに吹き込むことを思いつきます。当時のギリシャ・コロンビアでは、3万ドラクマを支払えば、個人吹き込みのSPレコードの制作を請負っていたということで、彼女はコロンビアのスタジオに出向き歌うことになりました。録音が始まるとコロンビアのスタッフはヴーラの歌に驚き、お金は請求しない、逆にこのレコードの吹き込みと専属契約に対してギャランティを支払うと申し出ましたが、ヴーラは契約を拒否、会社側を落胆させ、その幻の初吹き込みはレコードになることもなく、ヴーラの歌の才は埋もれて行くかに見えました。
が、ある夜、友人達と居酒屋で歌い楽しんでいる時、そこに高名な盲目の作曲家であり、新人の才を見抜くことに長けていたステリオス・クリシニス(1916-70)が居合わせ、クリシニスの弾くギター伴奏で歌ったヴーラの歌声は、大いにクリシニスを興奮させることに。是非にとレコードを吹き込むことを彼女に勧めると、ヴーラは以前、コロンビア・レコーズのスタッフから受けた浮薄な悪印象をクリシニスに語りました。そこで、ステリオス・クリシニスは当時、アテネに新設されたRCAレコーズのディレクター、ヨルゴス・オルファンディスにヴーラを引き合わせ、レコーディング・アーティストとしての契約、クラブやステージでのショーを強要しないという条件で、1960年、やっと彼女のレコーディング・デビューは決まるのですが、その初吹き込みで風刺歌や、ポップソングといった意に沿わない曲を吹込まされたことで彼女は休養を申し出、RCAを去ることになります。
なんだか、けっこうめんどくさい人柄を感じてしまいますが、それも、このCDの歌声を聞けば納得。決して、ライカ調も駄目という感じではないのですが、いわゆる “インド=ヨーロッパ・ソング” として彼女の看板になった曲群〜アリ・ナウシャド(1919-2006)や O.P. ナイヤル(1926-2007)といったインドのボリウッド系作曲家たちのナンバーを自身の手によってギリシャ民謡風に焼き直し、ギリシャ語の歌詞をそえて歌った録音群を聞けば、なるほど、自分と自分の歌を知る者の本領が発揮されていると納得できるでしょう。当時のヒット・ソングに倣った歌を演じることを潔しとせず、ということだったんでしょうね。それにしても、なぜ、ボリウッド・ソングを?という疑問も残りますが…。
あるいは、これはあまり知られていないことですが、60年代前半のギリシャではインド映画ブームがあり、数年の間に合計111本のボリウッド映画が封切られ、作曲家たちはこぞって映画館に足を運び、中にはテープレコーダーで録音する者も…、劇中の歌曲のメロディーを真似て、ギリシャ語の歌詞を乗せ曲作りをしたという事実もあります。他の作曲家も同じフィルム・ソングから改作したためバッティングが生じて、同じメロディーを持つ曲が次々と現れる珍事さえ起こったそうです。
ま、意外? と思われる方もいらっしゃるでしょうが、それが “ポピュラー・ミュージック” であるなら、そんなことは世界中で起こっていることですよね。日本の歌謡曲だって、同じアジアの周辺国や、ラテンやらジャズやらの曲を参考に作られた曲はゴマンとあるでしょう。ロックの時代になってさえ、そんなことはどこにでもあるでしょうね…(その後、著作権がうるさくなって、より巧妙になるわけですが)。
数々のライカ、あるいは、ギリシャのPOPソングの およそ90%が、トルコやアラブはじめ、エジプトやインドの旋律を部分的に、あるいは全面的に参考にしているというデータもあるそうです。そんな中、このブーラ・パッラは、ナウシャドはじめ、インドの作曲家達に敬意を払い、自分のシングルには必ずクレジットを入れて著作権料を払っていたそうですから、めんどくさい人柄、というのではなく、当時として、アーティスティックで真面目な音楽家だったということが言えるでしょう。
それもこれも、ギリシャにおけるボリウッド歌謡の焼き直し現象の嚆矢となった自らの音楽的な資質に、忠実であったということでしょうね。
それにしても、ギリシャ歌謡、レベーティカやディモーティカから、ライカ〜エデフノの流れだけでは語れない部分もある、ということ、記憶にとどめておくべきでしょうね…
で、話を元にもどして終わりにします(たった1枚しか再入荷していないCDに関して、なんでこんなに喋んなきゃいけないのか、自分でも謎、やっかいです…)。RCAとの契約が切れた後、ブーラは Nina というレーベルに“インド=ヨーロッパ・ソング”の7インチを2枚録音、その後、1965年にヨルゴス・オルファンディスに再び口説かれ、再度、RCAに復帰、ライカは歌わず、ディモーティカに翻案した“インド=ヨーロッパ・ソング”メロ・カヴァーのシングル2枚を吹き込み、これが大ヒットすることになります。
60年代後半を通じて、彼女はギリシャで最も人気のある女性歌手の一人となりますが、この時期、乞われて断り切れず人前で歌ったのは、たった20回だけという数字が残っています。ナイトクラブやTVで歌うことは彼女の気質には合わなかったようです。というわけで、本CDはRCA時代を中心にその後の70年代音源を含むベスト盤になります。
そして、いろいろ端折りますが、ヴーラ・パッラは、生涯4枚のオリジナルLP(RCA, ZODIAC, PAN-VOX x2)と40数枚のシングルを残し、1980 年に51 歳で亡くなったそうです。
1 Μαύρα Μάτια Στο Ποτήρι
2 Νυφούλα Σε Στολίζουνε
ーMusic by Ali Naushad
3 Η Παντρεμένη
4 Θέλω Άπονη Καρδιά
5 Γλυκιά Μου Αγάπη
ーLyrics by Κώστας Καρουσάκης
6 Γύρισε Πάλι Κοντά Μου
ーLyrics by Μιχάλης Πρωτοππαππάς
ーMusic by O. P. Nayyar
7 Το Ταξίδι Της Ζωής
ーLyrics by Μαρία Ρηγοπούλου
8 Συγχώρα Με
9 Ένας Λεβέντης Στον Μωρηά
10 Τραγούδι Του Γάμου
11 Όρκο Έπαιρνα Για Σένα
ーLyrics by Γιώργος Σαμολαδάς
ーMusic by Θεόδωρος Δερβενιώτης
12 Μοιάζω Μ’ Ένα Δέντρο Μαραμένο
ーLyrics by Λεονάρδος Μπουρνέλης
13 Παιδί Μου Γύρνα Πίσω
ーLyrics by Μιχάλης Πρωτόππαπας
ーMusic by Ali Naushad
14 Σαν Πουλί Κυνηγημένο
15 Σκοτείνιασε Η Γειτονιά
ーMusic by Γιάννης Γούβαλης
16 Απ’ Τη Ζωή Μου Πέρασες
17 Τ’ Άδικο Σε Περιμένει
ーMusic by Λεονάρδος Μπουρνέλης
18 Κλείσε Την Πόρτα
ーMusic by Γιάννης Γούβαλης