勝島伊都子, 若杉英樹 / 島むかてぃ

勝島伊都子、関西における奄美シマ唄の第一人者。
奄美諸島は沖縄より9年早く1953年に本土復帰を果たしましたが、その頃から大阪・尼崎などに多くの人々が職を求めて移り住み、現在、関西地方だけで約35万人の奄美系住民が暮らしているといわれます。これに対して奄美諸島における現在の総人口は15万人弱。2倍以上の奄美人が関西エリアで生活している計算になります。そして、これら奄美系住民の多くが奄美に住んでいたときと同じように強い絆で結ばれたコミュニティを形成しています。シマ唄も同様で、奄美大島南部・北部、徳之島、喜界島、沖永良部島など各エリアのシマ唄を継承する教室や研究会があり、それぞれの教室で昔ながらのシマ唄が歌われています。興味深いのは、それら関西で歌われているシマ唄の多くが、現在の奄美のシマ唄よりも古い形を残しているという事実です。シマ(集落・共同体)から遠く離れた異郷での生活、その中で自らをアイデンティファイするために頑なに昔からのスタイルを護った所以でしょうか。とまれ関西で歌われている奄美シマ唄には、現在の奄美では聴くことの出来るシマ唄とは一味違った懐かしさがあるといわれます。
勝島伊都子は、奄美大島南部のシマ唄スタイル=東(ヒギャ)節の名人で最も数多くのシマ唄を知っていたといわれる唄者・勝島徳郎の次女として、奄美大島・瀬戸内町の古志(こし)に生まれました。3歳で古仁屋に移住、その頃から父・徳郎は《百年に一人の唄者》と呼ばれる武下和平と一緒に歌っていたこともあり、幼い頃から二人のシマ唄に接していました。6歳の頃から父親のもとで本格的にシマ唄を習得、1961年、伊都子12歳の年に父親と共に大阪・伊丹に移り住む。有名な唄者が関西に移住してきたということで勝島徳郎・伊都子の父娘は催し物や祝座に事あるごとに呼ばれ、シマ唄を提供しました。伊都子26歳のとき、伊丹市の神戸製鋼の“前”に駄洒落で付けた「まえだ」という店を開業、関西エリアに住む多くのシマ唄愛好者や唄者で賑わったといいます。7年後、尼崎に「奄美」を開業、武下和平、森チエ、西和美、坪山豊、築地俊造、当原ミツヨらの唄者がことあるごとに顔を出す店として知られるようになる。2004年、尼崎市の杭瀬に島唄三味の店「来るだんど」を開業、それまで彼女が経営していた店は客同士が自然に歌い始めるいわゆる“唄遊び”の場として存在していましたが、ここに初めて確実にシマ唄を聴くことが出来る店が誕生。とはいうものの、昔からの客は相変わらずの“唄遊び”三昧、武下和平や築地俊造らがフラリと現れてはシマ唄を歌う店として知られています。
阪神杭瀬駅の近く、奄美系の飲み屋ばかりが立ち並んでいる五色横町に「来るだんど」(06-6489-0717・月曜定休)があります。開店は夕方5時頃。お客さんが見えて、飲み物と料理をサービスしながら一通り世間話が終わると、シマ唄が始まります。彼女は、いつも店のカウンター越しで立ったままの姿勢で、しかし表情豊かな手振りを添えながら歌います。最初に彼女の歌い方を見たとき“ちょっとヌスラットが入ってる”と思いました。しかし高音域でシャウトすることはなく、テンションの高さを感じさせるわりに歌声は豊かで緩やか。本人いわく「教室の歌い方ではないわな。お父ちゃんから教わったものと、お店やりながらいろんな人の唄聴いて自分で身に着けたものと、そんな感じや。ただ唄が上手なだけでは誰も店に来てくれんやろが、このあたり唄の上手がぎょうさんおるしな(笑)」
奄美から関西に移り住んで45年、尼崎のみならず、関西エリアに住む奄美人と奄美系コミュニティの拠り所として愛され続けてきた勝島伊都子が気合を込めて歌い上げたシマ唄アルバム。表題『島むかてぃ』はシマ唄を歌うときの彼女の姿勢そのものを指す。「私な、シマ唄を歌うときはいつも奄美を見てるんです。島に向かって歌ってるんです」〜メーカーインフォより

1. 朝花節
2. くばぬ葉節
3. 正月着物
4. しゅんかね節
5. 雨ぐれ
6. いそ加那節
7. 太陽ぬ落てぃまぐれ
8. かんつめ節
9. ちょうきく女節
10. やちゃ坊節
11. 塩道長浜節
12. 嘉徳なべ加那節
13. 豊年節
14. 喜界や湾泊り
15. イトゥ〜山と与路島

go top