「サーカス楽団引き連れて、聖なる酔っぱらいの歌声が沖縄からやってきた!!」梅津和時
魂を揺さぶるパワーロック 大工哲弘
2009年夏、「マルチーズロック」と書かれた一枚のCD-Rを手渡された。聞き慣れない名前だった。「大工さん、ライナーノーツを書いて」とがちゃぴん(上地一也)に頼まれた。他に何の資料も添えられずに。それから暫くして原稿の締切日を告げる電話が鳴り、慌てて音源を聞いてみた。叫びなのか吠えているのか、殆ど分かち難い、地響きをするほどの迫力に溢れた嗄れ声は紛れもなくモリゾウこと糸満盛仁のものである。
モリゾウと云えば2006年春の出来事を思い出す。それは故・筑紫哲也とモリゾウの出会いの瞬間であった。当時、筑紫さんは生まれ故郷、日田市で市民大学「自由の森大学」を開校していた。筑紫さんの想いのこもった市民のための自由の森大学は17年間つづいたが、惜しまれながらも閉校することになった。同大学でボランティア・スタッフとして運営を支えた30名が沖縄に慰安旅行を計画。その打ち上げを我が友人、宮里千里が「自分の家でやろう」と引き受けてくれた。奥方の手料理と泡盛で場の雰囲気は最高、皆が大盛り上がりしている最中、「大工さん、自分も歌っていいですか?」と、モリゾウはギターを抱え歌い始めた。開口、「♪筑紫さん、栄町に来てくださ〜い!」。演奏は途切れることなくエンドレスに続く…。筑紫さんはただじっと、うつむきながらモリトの音楽を聞いていた。その夜は土砂降りの大雨だった。きっと、モリトの歌声も地面を叩く大きな雨音に掻き消されて近隣に迷惑をかけることはなかっただろう。
それからほどなく、2ヶ月後の6月23日「全戦没者慰霊の日」。モリゾウの念願通り、TBS「筑紫哲也ニュース23」のカメラが彼のホームタウン、栄町に入った。そして、モリゾウへのインタビューは彼の経営する居酒屋「生活の柄」から日本中に生中継された。モリゾウの歌声は筑紫さんの魂の奥まで入り込み、大きく揺さぶったのだと思う。モリゾウとの約束を果たして一年半、筑紫さんは壮絶な闘病生活の末、黄泉の国へと旅立たれた。2008年11月7日 享年73。
いま、音楽が日々、多様化されている中、どんな音楽であっても、根底に流れるものは「祈り」である、そう思いたい。モリゾウが宮里千里宅で「祈り」を込めて演奏した音楽が筑紫さんの魂の琴線に深く共鳴し、大きな波動を喚んだことを目の当たりにして、そう確信せずにはいられない。
2007年、モリゾウと一緒に訪れたバリ島では寺院で歌い踊られるバリダンス、生の歌声による祈祷歌を共に鑑賞した。同じ唄者として、表現者に携わる者同士、深い感銘を受けたことを生涯忘れないだろう。表現手段こそ違え、歌も音楽も舞踊も究極、「祈り」に行き着くことを、この「神々の島」で現認したことをけして忘れまい。
めまぐるしく移り変わっていく音楽業界のサバイバルレース。マルチーズロックはけして流行に左右されたりはしない。その歌声にはいつの時代も変わらない魂の欣求、「祈り」に満ち充ちているのだ。 最後に息の合ったサウンド、心地よいバックのサポートの充実ぶりも特筆しておきたい。モリゾウの歌声をがっちりと支える上地一也ら演奏陣、彼らが創るgrooveはあくまで自然体だ。独自のフィルターを通して自由自在にサウンドを変化させるパワーに溢れている。これこそがマルチーズロック、沖縄発チャンプルーロックの本領なのである。
ぼくのようなオジィが繰り返し聞いているうちにファンになってしまった。そんな普遍性。そうだ、このCDが出たらモリゾウからサインを貰おう。チバリヨー!マルチーズロック!!
大工哲弘(歌手)
(メーカー資料から)
1. ビヨヨーン
2. 夢遊病者のたどる道
3. 命をけずってお前との口づけ
4. ベルリンのかけらをアメ玉にしてほおばる
5. Eマイナー
6. ロミオとジュリエット
7. バタフライ
8. ダウンタウンダンス
9. ひみつの土園