Highlife On The Move を聞く by 深沢美樹 Facebook その2


★あまりにもタメになるので(その2)、日頃フェイスブックを観ていない方にも是非にと思い、 深沢美樹さんのfacebook <https://www.facebook.com/yoshiki.fukasawa.3>より、ご本人にお断りして転載させていただきます。

その1<祝復刻! E.T. Mensah All For You』By 深沢美樹さん>はこちら
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Highlife On The Moveを聞く 1⃣

サウンドウェイの《Highlife On The Move》は、サブタイトルにあるように54年から66年の間にロンドンとレゴスで録音されたガーナ、ナイジェリアのハイライフ系アーティストの音源をまとめたものです。

フェラ・クティの初録音を収録したのが目玉ですが、他にもなかなか面白い音源も多くぼくも大いに楽しんでいます。

それぞれの音源を聞くだけでも楽しめるんですが、ちょっと大きな視点で眺めて見れば面白さがグッとアップするんじゃないでしょーか、そう思うんですな。ジジイのお節介と分かっていますけど。

そのひとつは40年代後半から英国で行われたカリブとアフリカの交流、それによって生まれた新たなアフリカのポップ・ミュージックが初めて世界音楽と言える現代性を獲得したという事です。

つまりサニー・アデやフェラ・クティ、ユス・ンドゥールにサリフ・ケイタと今までにもワールドワイドな活躍をしたアフリカン・アーティスト達がいますが、その世界音楽としての現代性は、この時代の英国でいち早く誕生したと言えるんです。

背景にあったのは第二次大戦後の英国の復興でした。それに必要となる労働力としてカリブ、アフリカなどの英国植民地から多くの人々やって来て、そこで多彩な文化が混じり合い新しい運動となり、それが各地域にフィードバックされ、それぞれの新しい音楽や脱植民地、独立への動きとなって行きました。

そんな音楽面での成果、代表がアフリカ初のワールドワイドなポップ性を有したE.T. メンサーのハイライフですね。彼については以前の投稿を参照して下さい。

もうひとつは音楽とあまり関係ないと思われるかも知れませんが、カリブ海で生まれた黒人思想運動(マーカス・ガーヴェイ、エメ・セゼール、C.L.R. ジェームス等々)がクワメ・ンクルマーの主導するパン・アフリカニズムに結実し、アフリカ諸国の独立に繋がった事。これも戦後英国での交流の結果と言えます。社会と音楽の動きが同じだったという事に、ぼくはとても面白さを感じてしまうんですが。

そしてアフリカ諸国とカリブ海地域の脱植民地、独立の動きと現代的性格を備えたポップ音楽の誕生が、ひとつの国だけでなく、広くカリブとアフリカの交流によって生まれた事も非常に重要な出来事だったと思います。

《Highlife On The Move》は、そんな時代の英国西アフリカ勢を中心とした音楽集、一断面とも言えるでしょうか。

と、またまた仕事が忙しくなって来ましたので、時間がなく今回は総論的なお話しか出来ませんでした。個々のアーティストなどこの続きは次回投稿まで。

Highlife On The Moveを聞く 2⃣《架空のアフリカン・ポップ・ミュージック》

それでは収録された内容について触れていきましょう。とはいえ一度に色々と書ききれませんので、少しづつ投稿していきますから気長にお付き合い下さい。

さて《Highlife On The Move》の中で最も早く英国で活動したグループと言えばナイジェリアのアンブローズ・キャンベル、ブリュウスター・ヒューズを中心に46年に結成されたウエスト・アフリカン・リズム・ブラザーズです。

彼らについては昨年の投稿ですでにご紹介していますが、今回いろいろと考えた事を書いておきたくなりましたので、まずは彼らから始めましょう。

中心人物のキャンベルとヒューズはもともとナイジェリアではジョリー・ボーイズ・オーケストラというパームワイン音楽系グループのメンバーでした。

ジョリー・ボーイズ・オーケストラはシエラレオーネのクル人と思われるサンデイ”ハーバー・ジャイアント”がリーダーで、1920年代後半英HMVに録音をしたナイジェリアでも最も初期のグループです。キャンベルとヒューズもサロと呼ばれたシエラレオーネからの帰還者コミュニティの出身。

昨年の投稿でジョリー・ボーイズ・オーケストラについて「彼らの音楽は単なるパームワイン音楽というより、20世紀初頭から様々な出自を持つ人々が集まり都市化するレゴスの、その自由闊達な感覚を反映したナイジェリア初のコスモポリタン・ミュージックだった」と書きましたが、そんな独自の音楽性をルーツに持つ2人が結成したウエスト・アフリカン・リズム・フラザーズは、単純にハイライフという言葉で括られるバンドではありません。

48年にテンポスのリーダーとなったE.T. メンサーの新しいハイライフは50年から初録音の52年にかけて創造されました。一方で46年結成のウエスト・アフリカン・リズム・ブラザーズは英国でメンサー達のハイライフとは違う独自の音楽を創り上げていたのです。

メンサーとウエスト・アフリカン・リズム・ブラザーズ、どちらもハイライフという言葉で括られてしまうとなんだか同じような音楽と受け止めてしまいそうですが、実は彼らの音楽は全く別物。全然関係ない、と言っていいかも知れません(50年代半ば以降は音楽的にメンサー系のハイライフから影響を受けたような演奏もありますが)。

それはここに収められた音源をしっかり聞いてもらえば理解できると思います。重要なのは、別々の音楽ながら両者は同時期に現代的アフリカン・ポップ・ミュージックを創造したガーナとナイジェリアの最初期のグループという共通点です。

そうした共通点がありながらメンサーのハイライフはガーナ国内のみならずナイジェリアを含めた西アフリカ一帯に大きな影響を与えました。ナイジェリアではボビー・ベンソン、ヴィクター・オライヤ、さらに最初期のフェラ・クティもその影響下にありました。

一方でウエスト・アフリカン・リズム・ブラザーズは英国アフリカン・コミュニティ内での評価に留まります。彼らがメンサーのようなポピュラリティを得られなかったのは色々な原因がありますが、端的に言えばその音楽の特殊性にあったのだろうと思います。彼らの音楽は、ある種架空の民俗性を基盤にジャズやラテン、カリプソ的な音楽をミックスした何とも言えないムードを湛えているんですね。

彼らはナイジェリアのグループですが三大民族のヨルバ、イボ、ハウサではなく、サロというシエラレオーネからの帰還者コミュニティの出身。さらにメンバーにはカリブ海バーベイドス出身のウィリー・ローチフォード、後年には同じくハリー・ベケットが在籍し、バンド自体が無国籍的、かつインターナショナルな存在でした。

ややヨルバ的な感覚を備えてはいますがジュジュでもなくナイジェリアン・ハイライフでもなく、敢えて呼び名を付けるとしたらモダン・ナイジェリアン・ポップ・ミュージックとしか表現できないちょっと不思議な音楽なのです。

それはカリブ、アフリカ、西欧近代がフュージョンを起こしたこの時代の英国でなければ成立出来なかった特殊なポップ音楽、と言えるでしょう。

モダン・ナイジェリアン・ポップ・ミュージックの開祖としてのウエスト・アフリカン・リズム・ブラザーズ。《Highlife On The Move》に収められた他のバンドと彼らの音楽をじっくり聞き比べてみて下さい。

極端と思うかも知れませんが、例えばそれはマーティン・デニーのエキゾティック・ミュージックのような構造を持った架空のアフリカン・ポップ・ミュージックと言えるかも知れません。彼らの音楽に漂う不思議な感覚も、そう思うとなんだか納得出来ますし、そこに彼らの新しい現代性があったのだと言えるんじゃないか。今回ぼくはそう思い至りました。

フェラ・クティが69年アメリカで黒人解放運動の影響を受け自身の音楽を模索した時に、アンブローズ・キャンベルを思い浮かべて参考にしたという逸話がありますね。それはフェラが彼らをヴィクター・オライヤのようなナイジェリアン・ハイライフではないと認識していたと同時に、その新しい現代性に着目した事を示しているのだと思います。

というところで次回は「ハイライフ」という言葉についてちょっと考えてみたいと思います。

*ウエスト・アフリカン・リズム・ブラザーズをもっと聞くならこちら《London Is The Place For Me 3: Ambrose Adekoya Campbell》HONEST JON’S RECORDS HJRCD21

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Highlife On The Moveを聞く3⃣ 《ハイライフって何だ?》1/2

突然ですがハイライフって何だ? って思った事ありませんか。歌謡曲とかロックやジャズって言葉と同じで音楽を指す言葉ですけれど、アフリカ音楽を代表する重要な大衆音楽のひとつでありながら、その全体像はまだまだ知られていないんじゃないでしょーか。

例えばロックなら、その時々の時代や状況やスタイルに合わせてフォークロックとかハードロック、ヘビメタ、プログレ、パンク、ニューウェイヴ、オルタナ、ネオアコ等々の呼び名があるのは皆さんご存知の通り。

まあ、ロックほどではありませんがハイライフだって時代や状況によってスタイルも変わっていますから、本当はハイライフという呼び名だけでそのすべてを括ってしまうのは無理がありますし、混乱や誤解の元になる場合もあるんです。ただでさえ、よく知られている訳ではないんですから。

また、人によってはパームワイン音楽をハイライフという呼称の中に入れて考える場合もあるようですが、ぼくはパームワイン音楽はハイライフと音楽の出自が違うので、別々に捉えるべきだと思っています。現在カメルーンのところで止まっているパームワイン音楽の広がりに関する連続投稿も、その観点で書いているんですけど。

本来パームワイン音楽とハイライフ、それぞれにちゃんとした呼び名がありますし、独立した音楽としてその流れを見ていけば両者の間でどんな接点や交流があったのか、分かり易いと思います。最初からハイライフと一括りにすると、接点や交流がぼやけてしまうと思いますね。

という事で、今回は簡単ながらハイライフの流れ、その全体像を見ていきたいと思います。ちょっと遠回りですが《Highlite On The Move》収録曲が、ハイライフ全体像のどこに位置するのか、そんな事も見えてくればいいなと思っています。

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Highlife On The Moveを聞く3⃣ 《ハイライフって何だ?》2/2

さて、ハイライフという言葉の由来については以前触れましたが、ここでもう一度書き出しておきましょう。
ハイライフは《もともと英国植民地時代に黒人エリート達が白人達のダンス・パーティを模倣した所から始まります。そんなダンス・パーティに正装して出かけ高い入場料を払うなんて一般庶民には不可能です。会場の外に漏れ聞こえるサウンドに「あの音楽は何だ?」と尋ねられて答えたのが「あれは上流階級のものさ=ハイライフ」というのが語源とも言われます。まあ、真偽のほどは分かりませんが、ハイライフのスタート地点がそこにあったのは間違いなさそうです》
これがいつの頃なのかハッキリしませんが、ガーナは1902年にイギリスの保護領となり英領ゴールド・コーストと呼ばれました。それ以前から英国の支配、文化的な影響は始まっており前掲の写真は1901年に撮られた中学校のブラス・バンドのもので、チューバ、トロンボーン、コルネットなどが確認できますね。
ガーナ音楽の研究家ジョン・コリンズは、最も早いダンス・バンドとして1914年に結成されたフランク・トルトのエクセルシア・オーケストラの名前を上げています。トランペット、トロンボーン、スーザフォンなどの金管楽器、フルート、ウッドベース、ドラムにヴァイオリン、チェロなどの編成で音楽的にはアッパー・クラス向けの西欧風ダンス音楽を演じていたようです。
20年代に入るとジャズ・キングス、ケープコースト・シュガー・ベイビーズ、ウィネバ・オーケストラ他のバンドが登場。名前にジャズとかシュガー・ベイビーなんて付くように、このあたりから庶民にも楽しめる音楽が広まって行ったようで、語源となる上流階級のダンス音楽ではなく、庶民的なポピュラー音楽、ダンス音楽としてのハイライフの原点は20年代にあったと言えそうです。ちなみに以前ご紹介したゴールド・コースト・ポリス・バンドは20年代後半の設立です。
なかでもコフィ・ミルスが率いたジャズ・キングスは20年代半ばからラグタイム、ハイライフなどをフォーマルなダンス会場でも演奏し、またヴォードヴィルやコメディなどの伴奏も行なったそうです。
このジャズ・キングスのメンバーにはジョー・ランプティという人がいて本職は小学校の先生で、生徒達に音楽を教え鼓笛隊を結成。そのメンバーに子供だったE.T. メンサーがいたんですね。さらにランプティ先生は30年代になるとブラスを導入しハイライフ調音楽も演じるアクラ・オーケストラを結成。メンサーもそこに加入していました。
そうしてメンサーは兄と共にアクラ・リズミック・オーケストラ(ガイ・ウォーレン参加)を37年に結成。40年にはジャック・レオパードのブラック・アンド・ホワイト・スポッツ(ジョー・ケリー在籍)に参加、さらにテンポス・バンドへと47年に移籍。キング・オヴ・ハイライフの道を歩む事になりますが、これ以降の事はE.T. メンサーの投稿(エルスール原田さんにホームページで取り上げて頂きました!)を参照して下さい。
このように20年代から30年代にかけ大衆化していったハイライフは第二次大戦の人的交流により一層のポピュラー化、現代化へと向かいます。そしてE.T. メンサーのテンポス誕生と、ここまでがいわゆるハイライフのルーツと捉える事が出来るでしょう。
この続きは次回投稿まで。
*ハイライフに関してはジョン・コリンズの著作の他にネイト・プレーグマン(Nate Plageman)の《Highlife Saturday Night : Popular Music and Social Change in Urban Ghana》が大変参考になりますよ。

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Highlife On The Moveを聞く4⃣ 《続・ハイライフって何だ?》
⬇ 1/3

前回はルーツ・ハイライフとして戦前のダンス・バンドからE.T. メンサーのテンポス結成までを簡単に振り返ってみました。
E.T. メンサーの功績はもう何回も書きましたから繰り返しませんが、簡潔に言えばハイライフをモダン化したという事です。分かり易く言えば、それはスウィングからビバップ〜モダン・ジャズになった事に例えられるかも。
その衝撃と影響によりハイライフはガーナだけでなく様々な地域に展開していきます。そんなメンサー登場以降の展開を掴むには、主に3つのシーンに分けて捉えれば分かり易いと思います。
1⃣ ひとつはメンサーの後を追うように多くのバンドが輩出した本場ガーナのシーン。ブラック・ビーツ、スターゲイザーズ、レッド・スポッツ、ブロードウェイ・ダンス・バンド、ランブラーズ、ウフルーズ、メロディ・エイセズなど他にも多くのバンドがメンサーをフォロウするスタイルでデッカを中心に録音、活躍しました。
2⃣ 2番目はメンサーの影響を受けたボビー・ベンソン、ヴィクター・オライヤを皮切りにロイ・シカゴ、レックス・ロウソンなどが活躍したナイジェリアン・ハイライフのシーン。他にリベリアやシエラレオーネにもメンサーの影響下にあるアーティストがいます。
3⃣ そして3番目が英国でのブリティッシュ・ハイライフとでも言えるシーンです。こちらのシーンの先駆者は、アンブローズ・キャンベルとブリュウスター・ヒューズのウエスト・アフリカン・リズム・ブラザーズという事は前々回に書きました。
上記はごくごく簡単に見た場合で実際はもっと複雑ですが、こうして見ていくと《Highlife On The Move》は3⃣のシーンを中心に2⃣のナイジェリアン・ハイライフを加味した内容という事がご理解頂けると思います。ベテランのマニアの方には何を今更でしょうが、分かり易い基本的な理解は大切ですよね。
ところでぼくは前々回にE.T.メンサーとアンブローズ・キャンベルの音楽はまったく別と書きました。それなのに一般的には両者とも「ハイライフ」という同じ言葉で呼ばれるのは何故なんでしょう。まあ、あまり深く考えていないという事もあるでしょうが…。
本来「ハイライフ」という言葉はE.T. メンサーや、そのルーツとなったガーナのブラス・アンサンブルによるダンス・バンドと音楽を指すものでした。
その基本を押さえてみますと1⃣のガーナのバンド達の音楽を「ハイライフ」と呼ぶのは妥当だし、2⃣はナイジェリアの場合を表すので「ナイジェリアン・ハイライフ」と呼ぶのも納得できますね。
3⃣は英国のシーンを表すので、本当なら「ブリティッシュ・ハイライフ」とすべきでしょうが、そう呼ばれる事はほとんどありません。ただ単純に「ハイライフ」の呼称で語られる事が多いのです。
それは「ハイライフ」という言葉が、恐らく「西アフリカ英語圏のモダンなポピュラー音楽」という幅広い意味、見た目の印象にすり替えられ、一括りに出来る便利な名称になっているという事だと思います。
確かに「ハイライフ」という言葉にはモダンな音楽という意味が含まれていると思いますし、「西アフリカ英語圏のモダンなポピュラー音楽」を代表する音楽と言えばハイライフです。でも西アフリカ英語圏の音楽すべてが「ハイライフ」ではありませんよね。
メンサーとアンブローズ・キャンベルの場合で言えば、彼らの音楽スタイルや出自に目を向けず、つまり音楽の実態をよく見ないで便利で使い易い言葉として「ハイライフ」と呼んでいるような気がします。
まあ、メンサーとアンブローズ・キャンベルの両方を「ハイライフ」と呼ぶのはモダン化という意味から許せますが、最低限、音楽の実態が違うという事に注意は必要でしょう。そこを見逃すとアンブローズ・キャンベル達のユニークな音楽性が分かってもらえないんじゃないでしょうか。
ぼくも厳密に分類、整理せよと言うつもりはないんですよ。ただ音楽の実態を見ない姿勢、表面だけの浅い捉え方には反対です。

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Highlife On The Moveを聞く4⃣ 《続・ハイライフって何だ?》
⬇続き 2/3

もうひとつ「ハイライフ」という言葉に関して触れておきたいのがギター・バンド・ハイライフです。これはブラス・アンサンブル中心のダンス・バンド・ハイライフに対してエレキ・ギターを中心にしたバンド達とその音楽を指す言葉ですね。
最初に注意しておきますが、ブラス・アンサンブルのハイライフ・バンドでも50年代半ばから後半にかけエレキ・ギターがアンサンブルの前面で使用される事が増えてきます。しかし、それがギター・バンド・ハイライフと呼ばれる訳ではありません。
ギター・バンド・ハイライフと呼ばれるバンドの多くはパームワイン音楽のアーティストたちから登場し、そのギター・スタイルを基盤に時代に合わせたモダンなスタイルを模索、確立していく過程でそう呼ばれるようになりました。
前回「パームワイン音楽はハイライフと音楽の出自が違うので、別々に捉えるべき」と書きましたが、パームワイン音楽をモダン化、発展させたバンド達にハイライフという呼称が付くのですから、あ〜ややこしい。
さらに当時のそんなギター・バンドたちのSP盤のレーベルには、しっかりと「ハイライフ」と書かれているのが多いんです。つまり本人達が「俺たちの音楽はハイライフだべ!」と言ってるようなもの。じゃあ、パームワイン音楽とハイライフは別に捉えるべきとするワタクシの主張はどうなるんだ? え〜まあ心配には及びません。
むしろパームワイン系アーティストが自分たちの音楽をなぜ「ハイライフ」と名乗るのか、この問題を考えていくと当時のガーナの音楽シーンがひとつ見えてくると思います。

*ハイライフと書かれたドクター・K・グヤシのパーロフォン盤

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Highlife On The Moveを聞く4⃣《続・ハイライフって何だ?》

⬇続き 3/3

パームワイン音楽の初録音は20年代のサムことクワメ・アサレに始まり、戦後の代表者E.K.ニヤメへと展開していきます。ニヤメはコンサート・パーティ・シアターと呼ばれる総合大衆芸能のスタイルを確立、大きな人気を得て70年代まで意欲的な活動を行いパームワイン音楽に様々な試みを行いました。しかし、彼の音楽は本質的にパームワイン音楽のスタイルから逸脱するものではありません。
50年代から活動するアーティストでニヤメの他にエレキ化などの試みはカカイク、キング・オニイナ、アコンピたちが行い、オニイナなどが新鮮な感覚を聞かせましたが、やはりパームワイン音楽の延長線上での試みだと思います。
後にギター・バンド・ハイライフと呼ばれる真に新しいスタイルを創造した中心人物はドクター・K・グヤシ(発音はギャシに近いかも)だというのが、ぼくの考えです。彼はオルガンなども導入し、複数のギターが絡み合う流れるようなアンサンブルを確立して行きます。
では、何故彼らは自分たちの音楽をハイライフとしたのか。それには幾つかの事情が考えられます。
ひとつは「ハイライフ」に「モダンな音楽」という意味を見い出した事。またミュージシャンたちが音楽のジャンル名にこだわっていなかった事もありますが、やはりダンス・バンド・ハイライフが大きな人気を誇っていた事が一番の原因でしょう。
この時代、ニヤメやカカイクはコンサート・パーティ・シアターのスタイルで人気を得ていましたが、他のパームワイン系アーティストたちはダンス・バンド・ハイライフの人気に隠れがちだった事は否めなかったと思います。
そんな問題の答えが、自分たちパームワイン系の音楽を大人気のハイライフの仲間入りにさせる事。ジャンル名なんか気にしなければ、その人気にあやかろうとするのは無理ありません。むしろガーナの独立と新時代の到来を象徴する音楽ハイライフへ賛同、積極的に「ハイライフ」と呼ばれる事を望んだかも知れません。
当時のパームワイン系ギター・バンドのSP盤に「ハイライフ」との表記が多いのはそんな背景があったからではないでしょうか。つまりそれは音楽の実態を表すのではなく、常にサヴァイヴァルな状態にある芸能の生命力の所以なのだと思います。
ですから、ぼくはパームワイン音楽とハイライフを別々に捉える考えを変えるつもりはありませんし、同時にバームワイン音楽をルーツに持ちながらギター・バンド・ハイライフという呼び名である事、それを否定はしません。
それではハイライフの問題はこのあたりで。次回からは本題に戻り《Highlife On The Move》収録アーティストについて触れていきましょう。
*もう一枚ハイライフと書かれたグヤシのSP盤を。中央の黒い星、ブラック・スターはアフリカの自由を表す。

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Highlife On The Moveを聞く5⃣《隠れた大物スティーヴ・ローズ》1/2

GWもそろそろおしまいですねー。ワタクシもちょっとだけ、のんびりさせていただきました。さて今回から《Highlife On The Move》の収録者について少しずつご紹介して行きましょう。
本来ならカメルーンが終わり、いよいよ連続投稿の最終目的地となるコンゴでのパームワイン音楽の影響について探って行く予定なのですが、まあ乗り掛かった船。《Highlife On The Move》のお話が終わってからそちらに取り掛かることにしますので、暫しお待ちを。
という事で今回ご紹介したいのは《Highlife On The Move》に2曲収録されているナイジェリアのスティーヴ・ローズです。
彼の名前を聞いた事がありますか? 以前チラリと出した事があるんですけどね。ファタイ・ローリング・ダラーが在籍していたJ.O. アラバのグループを紹介した時に、彼らの面倒をみた人物として簡単に触れましたね。
スティーヴ・ローズはNBC(ナイジェリアの放送局)のDJでアラバ達に色々とアドヴァイスし、ローリング・ダラーが加入したJ.O.アラバ&ヒズ・リズム・ブルースを57年にプロデュース。フィリップスへ録音させた人物でした。
もちろん彼の功績はそれだけでありません。表舞台に出る事はあまりなかったのですが、ナイジェリアン・ハイライフ〜ジャズ・シーンを支えた重要人物として広く尊敬を集めていた人物です。日本ではまったく知られていないようですが。残念ながら2008年に亡くなってしまいました。
スティーヴ・ローズ(本名Stephen Bankole Omodele Rhodes)は1926年レゴス生まれ。父は判事の職に就いていたエリートです。幼い頃からピアノを習い聖歌隊で歌い、高校ではフルューゲル・ホルンとユーフォニュウムを習ったそう。成績優秀で高校を卒業した後は英国オクスフォード大学に留学しています。
本当は音楽の道を望んだそうですが、父の要望に従い法律の勉学をする事に。ところが、そんな学生時代に出逢ったのがドイツからやって来た音楽教授。誘われてドイツで音楽のセオリーや指揮法、オーケストレイションを学びドイツの英国軍放送局でチェロを演奏、ジャズの仕事もしたそうです。こうして音楽の道にハマってしまいました。
ドイツで経験を積んだ後に英国に戻り、今度はメロディスクの音楽監督兼プロデューサーとして活躍を始めます。50年代英国黒人音楽の一番美味しいレーベル、メロディスクのカリプソやジャズは以前ご紹介したデニス・プレストンが音楽監督、アフリカ系はこのスティーヴ・ローズが担当していたようです。
またローズはフリーランスのアーティストとしてBBCでも働いていたそうです。こうして彼は50年代半ばまでロンドンのハイライフ・シーンに関わっていきます。
*晩年のスティーヴ・ローズ近影。

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Highlife On The Moveを聞く5⃣《隠れた大物スティーヴ・ローズ》2/2
⬇続き

さてロンドンに腰を据えたローズですが、55年にナイジェリアに戻ります。当時急成長していたラジオ放送局NBS(Nigerian Broadcasting Service)に招かれての事でした。NBSは後にNBC (Nigerian Broadcasting Corporation )と改称しますが、ローズが J.O. アラバ達に出逢ってアレコレと面倒を見たのはこの頃の事です。

また彼はナイジェリア初の放送局の専属バンドとなるNBCダンス・オーケストラを結成します。ナイジェリアのクラシック音楽の第一人者として著名なフェラ・ソワンデも音楽監督を務めた事があったと言います。

このオーケストラからは後に有名となるアーティストが多数輩出しています。例えばクリス・アジロ、E.C.アリンゼ、スタン・プランジなどはNBCダンス・オーケストラの出身です。

クリス・アジロについてはヴィクター・オライヤやフェラ・クティにも関係して来るので、また改めて触れる予定ですが、E.C.アリンゼは後に自己のバンドを結成。彼の元からはヴィクター・ウワィフォ、ピーター・キングらが出ています。スタン・プランジはナイジェリアの人ですが後にガーナのウフルー・ダンス・バンドのリーダーとなる人物。彼らは皆ローズの元で学び、そのキャリアをスタートさせた訳ですね。

そんな功績のあるローズですがNBCでのサラリーは非常に安かったそうで、彼は再び英国に向かいます。この時に録音されたのが《Highlife On The Move》収録の ”Drink A Tea” ”Oju Rere” の2曲でした(58年の録音)。

”Drink A Tea”は当時の英国カリプソによくあるリズムとメロディを翻案したようなスタイル。サックスはアル・ティモシー、トランペットはシェイク・ケーンで2人ともカリブ海はセント・ヴィンセント島の出身。特にシェイク・ケーンは59年から英国ジャズの代表的サックス奏者ジョー・ハリオット(ジャマイカ出身)のバンド・メンバーとして活躍。それ以前からこうしたカリブ〜アフリカ系の録音に数多く参加しロンドンのハイライフ・シーンに貢献していたのでした。

もう1曲の”Oju Rere”はクリス・アジロの作品。ローズの妹による歌入りのゆったりしたハイライフですがトランペット、さらにジャジーなテナー・サックスのソロがカッコよく聞き物です。

ローズは60年代初頭に再びナイジェリアに戻りますが、この時期ロンドンにやって来たのが若きフェラ・クティです。もちろんフェラはスティーヴ・ローズを知っていた事でしょう。

フェラはJ.O.アラバの大ファンで、ファースト・アルバムではオリジナル以外アラバの曲を唯一取り上げていますが、そのJ.O.アラバの恩人であり、フェラが初録音を行ったメロディスクの音楽監督がスティーヴ・ローズだったのです。

フェラとローズの不思議な縁、この続きは次回投稿へ。

*フェラのファースト・アルバムA面6曲目に収録 ”Araba’s Delight” はJ.O.アラバの作品。

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Highlife On The Moveを聞く6⃣ 《隠れた大物No.2 クリス・アジロ》1/3

前回は隠れた大物としてスティーヴ・ローズをご紹介しましたね。彼がナイジェリアで結成したNBCダンス・オーケストラには後のナイジェリアン・ハイライフ・シーンを彩るアーティストたちが在籍した事も書きましたが、今回はそのNBCダンス・オーケストラでリーダーを任されていたクリス・アジロを中心にご紹介しましょう。
クリス・アジロの曲 ”Afro Mood” は《Highlife On The Move》にもしっかり収録されていますが、スティーヴ・ローズの弟分とも言える彼もナイジェリアン・ハイライフ〜ジャズ・シーンに重要な役割を果たした大物なんです。
クリス・アジロは1929年レゴス生まれ。元々は自動車のエンジニア志望で勉学の為に英国の工業都市として有名なバーミンガムへ。ところが偶然出かけたクラブで音楽の魅力に取り憑かれ、エンジニアから音楽家へと転身を決意。ロンドンに出て音楽の勉強を始めます。
音楽を学んだのはエリック・ギルダー音楽学校で、ここの卒業生にはエボ・テイラーや後にオシビサを結成するテディ・オセイらがいたそうです。
さらにアジロはジョニー・ダンクワース、ケニー・グレアム(アフロ・キュービスツ!)たちに家庭教師をお願いして学んだと言いますから、半端ないですね〜。
こうして修行を積んだアジロはかつて住んでいたバーミンガムへ戻りバンドを結成します。バンドの名前はクール・キャッツといいました。はい、ヴィクター・オライヤのクール・キャッツと同じ名前ですねー。たまたま同じ名前だった訳ではありませんよ。そのイキサツは…。
1954年にアジロはナイジェリアに戻りクール・キャッツを再スタートさせます。その時、参加したのがヴィクター・オライヤでした。
この前にオライヤはボビー・ベンソンのバンド(ボビー・ベンソンは幾つかバンドを主宰していて、その内のひとつだったようですが)に在籍して経験を積んでいました。
で、クール・キャッツを率いていたアジロはあるクラブと契約して演奏していたんですが、そのクラブのオーナーがお金にガメつくて嫌気がさし、何人かのメンバーと共にバンドを離れる事にしたんです。
残ったメンバーたちはクール・キャッツの名前をそのまま受け継ぎリーダーとなったのがヴィクター・オライヤでした。ですからオライヤのクール・キャッツは元々クリス・アジロのバンドだったんですね。そして暫くして人気が出たクール・キャッツに加わったのが、若きフェラ・クティという訳なんです。

*2012年クリス・アジロ83歳。現役でーす。

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Highlife On The Moveを聞く6⃣ 《隠れた大物No.2 クリス・アジロ》2/3

さて、クール・キャッツを離れたその後のアジロですが、ボビー・ベンソンからバンドに入らないかと誘われます。しかしアジロは自分のバンドを結成するという望みがありその話を断りました。
ところが諦めきれないベンソンはアジロの母親を説得。仕方なくアジロはベンソンと共に ”Bensajil” というバンドを結成する事に。ボビー・ベンソン、バンド仲間だったガーナ人のサミー・ラーティ、そしてアジロと3人の名前を繋げたバンド名でした。しかしこのバンドは長続きせず、アジロは自身のバンド、クリス・アジロ&ヒズ・クバーノスを55年に結成します。
このバンドでデッカに録音したのが彼の初レコーディング。デッカには6曲の録音があるとされますが、番号が判明しているのは下記の一枚だけ。
また、この時期に平行してNBCダンス・オーケストラにも参加、スティーヴ・ローズの信頼を得てリーダーを任されたようです。
◆Decca
WA 1800 Anna’s Trick / Iku Eko(1958)
続いてフィリップスにも録音を行い《Highlife On The Move》に収録されたのはこの時期の録音。フィリップスにも録音はもっとあると思いますが…。
◆Philips
PF 383 382 Oro Re / Orilonise
PF 383 881 Afro Mood / ?
◆Philips 10”
P 13400 R Ariwo
上記はフィリップスの10インチ盤《Catchy Rhythms from Nigeria》に収録された曲で63年のヒット。後にオシビサが ”Ayiko Bia” のタイトルでカヴァー、さらにジンジャー・ベイカーもエアフォースで取り上げています。

 

Highlife On The Moveを聞く6⃣ 《隠れた大物No.2 クリス・アジロ》3/3

アジロはバンド活動だけでなく、音楽教師としても多くのミュージシャンを指導しています。
その1人がレカン・アニマシャウンです。65年からフェラ・クティが亡くなるまで活動を共にし、現在はシェウン・クティを支える本家アフロビートの大重鎮。
レカンがクリス・アジロの元で音楽の勉強を始めたのは兄の紹介で、アジロとレカンの兄は友人だったのでした。筋の良かったレカンは59年にアジロのクバーノスに加入、これが彼の音楽活動のスタートでした。
さらにアジロはレカンをNBCダンス・オーケストラのメンバーに推挙。これが縁でフェラとレカンは出会う事になります。
フェラがロンドンからナイジェリアに戻ったのは63年の事。フェラは暫くNBCのラジオ番組のプロデューサーとして働くことになり、NBCダンス・オーケストラのリハーサルを良く見に来ていたそうです。
ある日フェラがバンドを組むという話を聞いたレカンは、食堂にいたフェラに自己紹介しオーディションをする事に。レカンの演奏を気に入ったフェラはメンバーに決定。こうしてレカンはフェラと共に長い道を歩む事になります。1965年の事でした。
さて、この後アジロはナイジェリア・フォノグラムに招かれプロデューサーに就任。79年から96年までその職につき、オシタ・オサデベ、マイク・エジャーガ他沢山のアーティストをプロデュース。またラバジャはアジロの作品をカヴァーしリスペクトしている事も記しておきましょう。
さらに2012年、齢83にして初めてのソロ・アルバム《Ariwo》を発売したからビックリです。アルバム・タイトルは先程聞いて頂いたフィリップスでのヒット曲。
《Highlife On The Move》にはスティーヴ・ローズが演奏しているクリス・アジロの作品 ”Oju Rere” が収録されていますが、この曲も ”Emi Mimo” のタイトルで再演しています。さすがに年齢ですからすべての人にオススメの内容ではありませんが、他にも往年の作品を中心に元気な歌と演奏を聞かせてくれ、ホント頭が下がります。
スティーヴ・ローズ→クリス・アジロ→ヴィクター・オライヤ→フェラ・クティとレカン・アニマシャウンという、この人脈の流れが分かると《Highlife On The Move》もよりいっそう面白く聞けるんではないでしょーか。
*2012年発売の《Ariwo》。ナイジェリア音楽界の最長老であります。

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Highlife On The Moveを聞く7⃣ 《ボビー・ベンソンの実像》1/4

スティーヴ・ローズ、クリス・アジロに続いて今回取り上げるのは、お待たせしました! ボビー・ベンソンです。ローズ、アジロは知名度こそありませんが、彼ら3人は50年代から60年代にかけてナイジェリア音楽界に貢献したハイライフ系のビッグ・スリーです。
えっ、ヴィクター・オライヤはどーなんだって? はい、オライヤを始めロイ・シカゴ、レックス・ロウソンなどは皆彼ら3人の元から巣立ったようなもの。もちろん一時代を築いた大スターたちですが、彼らの活躍の土台を固めたのはローズ、アジロ、そしてボビー・ベンソンなのです。
ボビー・ベンソンはナイジェリアン・ハイライフのパイオニアと言われ ”Taxi Driver” のヒットでナイジェリアだけでなく日本のアフリカ音楽ファンにも有名ですね。しかしそのヒット曲と名前だけが先行してしまって、重要人物なのに肝心の音楽の全体像や個性が良く知られているとは言えません。
その大きな原因は彼の残した録音がまとまった形で聞けない事にあるからで、経歴などは資料がかなりありますが、どのレーベルに吹き込んだのか、どれだけの録音があるのか、基本となる具体的音源についてはハッキリ分からないのです。
83年にボビー・ベンソンが亡くなった時にサニー・アデが追悼盤を発売、ぼくもその頃から彼のレコードを探していますが、現物を入手出来たのは本当に僅かで、何故か彼のレコードは市場になかなか出て来ないのです。
人気がなくてあまりレコードを吹き込まなかったのと違い、人気があったのは間違いないと思います。なのにレコードが見つからない理由のひとつは、彼がステージ活動に力を入れていたから、という気がします。
もうひとつの理由は単純にレコードがあまり売れなかったからと考えられます。彼の最大のヒット曲である ”Taxi Driver” はフィリップス録音ですが、実はこれも発売年がハッキリと分かりません。彼のヒット曲と多くの資料に書かれていますが、それがいつの事なのか書かれた資料はないんですよー。偶然60年と書かれているものを見つけましたが、実際はもう少し早いと思います。
ナイジェリアにフィリップスが設立されたのは50年代半ば前後、スタジオ開設は57年頃とされます。ボビーは49年頃から録音をしていたと推察されますが、いずれにしろ最大のヒット ”Taxi Driver” が出たのはかなり後。ぼくは58年前後ではと考えています。つまりレコーディング・アーティストとしての成功は遅かったと思われるんです。
*Florent Mazzoleni. Kwesi Owusu著 ”Ghana Highlife Music” に ”Taxi Driver” は57年のヒットという記述を見つけました。追加情報として書いておきます〈6月22日)
早くから録音はしていますが、彼はレコードよりステージ活動に力を入れ人気を博していた。ようやく50年代後半にヒット作が出て名実共に大スターに。50年代のボビー・ベンソンの活動はそう要約出来るかと思います。

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Highlife On The Moveを聞く7⃣ 《ボビー・ベンソンの実像》2/4

ボビー・ベンソンは1922年生まれ。兄は有名な政治家となるT.O.S.ベンソン。学校卒業後に短期間ボクサーをしていましたが海軍に入隊。1944年ロンドン滞在中に軍隊を辞し、バレエ団に加入してヨーロッパ各地を巡演したそうです。
そこで奥さんとなるカサンドラと出逢い、47年にナイジェリアに戻り2人の名前を冠した劇団を立ち上げ、この時にヨーロッパのショウビジネスのスタイルやエレキ・ギターをナイジェリアに伝えたと言われています。

以前ご紹介したナイジェリアの演劇の父と言われるヒューバート・オグンデは45年に最初の劇団を結成して人気でしたから、活動当初のボビーはそんなシアトリカルなスタイルを目指していたのでしょうね。

演劇と言っても音楽やダンスなども含めた総合的なエンターテインメントで、ボビー自身もギターやサックスを演じていたようです。やがてそんな音楽を担当する楽団が独立して誕生したのがジャム・セッション・オーケストラでした。

楽団設立には兄T.O.S.ベンソンのアドヴァイスがあり楽器一揃の費用も兄が用意したそうです。

最初はハイライフではなく、レゴスで聞かれていたジャズやポピュラー・ナンバーを演奏するバンドたちに倣い、ロンドンやヨーロッパ巡演で身に付けた要素も加えたスタイルだったようです。バンド名からもジャズの影響が伺えますね。

レゴスにはガーナと同じように古くからブラス・バンドのグループがあり、20年代から30年代にはカラバール・ブラス・バンドが結婚式やパーティで演奏しかなりの人気だったと伝わります。ボビー・ベンソンは、若い頃にそんな通りを練り歩く彼らの後を追いかけたもんだよ、と回想しています。

このバンド、レゴス・モーツァルト・オーケストラの変名でパーロフォンに録音を残しており、数曲がCD化されています。名前の通りリーダーのアズクウォ・バセイほかメンバーの多くはナイジェリア南東部の都市カラバールの出身ですからエフィク人と思われます。

他にも戦前から警察や救世軍などのバンドがいましたし、ボールルームなどのダンス・バンドが西欧のポピュラー・ナンバーを演奏していました。また1935年にはガーナからケープ・コースト・シュガー・ベイビーズがレゴスに来演。早くもガーナのハイライフ(メンサー以前のスタイルですが)を伝え、戦後にはジャズやポピュラーを演奏するかなり多くのバンドがホテルやクラブで活動していました。

こうした音楽的背景とボビー・ベンソンは無縁ではありません。彼は50年頃にE.T.メンサーとの交流を経てハイライフに傾倒するまでは、ヒューバート・オグンデの演劇的スタイルと、音楽的にはこうしたレゴスのオーケストラを踏襲していたとも言えますね。

試しにカラバール・ブラス・バンド(レゴス・モーツァルト・オーケストラ)を聞いてみましょうか。非常に面白い構成の曲で、ハイライフではありませんが、これはこれで強く興味を惹かれます。

Highlife On The Moveを聞く7⃣ 《ボビー・ベンソンの実像》3/4

⬇続き
話をボビー・ベンソンに戻して彼の録音について追いかけて行きましょう。あまり知られていませんが、最も初期の録音と思われるのが、バデジョズ・サウンド・スタジオスへの吹き込みではないかと思います。

◆Badejo’s Sound Studios
BS 232 Be Bop Jump at 4 / ?

バデジョズ・サウンド・スタジオスは47年頃から活動を始めているナイジェリアのドメスティック・レーベルの嚆矢。レコードは最初はBS規格で、50年代初頭にBA規格になったそうですから、番号からも推察して49年頃の録音と思われます。

曲名からも分かりますが、ハイライフ以前のジャズに傾倒していた彼のスタイルが聞けるはず。もちろんウルトラ・レア盤で、ぼくも見たことはありません。バデジョズにはまだ録音があるはずです。

続いて録音年が判明しているのが54年のパーロフォン録音6曲。こちらはありがたい事に《Centre for African Studies Basel》というスイスのバーゼルにある施設が公開していて聞く事が出来ます。

https://africanmusic.unibas.ch/…/collection-of-shellac-reco…

◆Parlophone 1954
UTC 3003 Cherrycoco / Bebiji Topi Yo Sokotijimu
UTC 3004 Portable Girl / La Castagnette
UTC 3005 Darling I Know What You Want / Shemiloya No.2

E.T.メンサーとの交流を経て影響を受けた後なので、かなりメンサーに近いスタイルを聞かせる曲がありますねー。中でもびっくりなのは ”Darling I Know What You Want” という曲。

これ、歌詞は変えていますがメンサーの ”Sunday Mirror” のパクリじゃないですか! アレンジはそっくりそのまま。当時のメンサーからの強いインパクトが実感出来ますね。聞いてみて下さい。

https://africanmusic.unibas.ch/…/Bobby%20Benson%20&%20His%2…

Highlife On The Moveを聞く7⃣ 《ボビー・ベンソンの実像》4/4

さて54年のパーロフォン以降の録音にセナフォン、トルバドゥール、デッカ、そしてフィリップスがあります。明確な録音年月が判明していないのでやや前後しますが、これらは50年代半ばから後半にかけてのものと思われます。

◆Senafone
FAO 1143 Uncle Joe Calypso / Calypso Minor One
FAO 1144 Maladidamu / ?

◆Troubadour
W106 Okokoko / ?
W119 Sabongari Baby / Tos Benson

トルバドゥールは南アフリカのレーベル。このWシリーズはナイジェリアのアーティスト達を録音したシリーズで、詳細不明ですがボビー・ベンソンの録音はまだ何枚かある模様。
《Highlife On The Move》にはこのトルバドゥール録音から ”Okokoko” が聞けますが、やはりメンサー流のホーンズのリフが特徴。W119は兄のトス・ベンソンについての曲が収められています。

また大英図書館のデッカ・ライブラリーには記録がありませんが、デッカにも録音があり、下記の1枚が判明しています。デッカにもまだ録音はあるはずです。

◆Decca
WA 1794 Monkey Miss / That Nylon

そしてフィリップスの録音から ”Taxi Driver” が大ヒット。その曲を含むEPにはナイジェリア独立(60年)に関すると思われる ”Freedom? Yes Sir! ” という曲がありますから、録音は60年のすこし前だと思います。ちなみにEPのタイトルにもなったベンソンのクラブ《Caban Bamboo》開店も60年。
《Highlife On The Move》に収められたもう1曲の ”Niger Mambo” はラテン調のインストで、こちらは米国のジャズ・ピアニストのランディ・ウェストンが61年にカヴァーしていますね。これについては萩原和也さんがブログで紹介していますからご参照下さい。

◆Philips EP
420.005PE Caban Bamboo ; Freedom? Yes Sir! / Gentleman Bobby / Taxi-Driver / Niger Mambo

◆Philips 10”
P13400R  Catchy Rhythms from Nigeria ; Taxi-Driver / Gentleman Bobby

✳フィリップスから発売されたSP盤は以下の物がありました。追加情報として記載しておきます。

◆Philips 78’s
82014 Freedom Mambo / ?
82019 Taxi Driver, I Don’t Care / Solu Ife Uwa
82025 Gentleman Bobby / Niger Mambo
82026 Trickish Calabar Mother-In-Law / Mambo Sapele-Warri
82138 Gordy Okigbo / Olinke Madu
82139 Baba Ewa / Yes Sir !

さらにフィリップスの後だと思いますが、フランスのパテからEP盤が出ています。これはご存知の方は少ないんじゃないかなーって、ぼくも持っていませんけど。番号から言うと65年の発売です。

◆Pathe
EG 872 Bobby Benson and his Band Star Rockets ; Opika Special / Rudge / Maha Mi Nua / Walking Down The Street

彼のバンドからはヴィクター・オライヤ、ロイ・シカゴ、レックス・ロウソン、ジール・オニイヤ、チーフ・ビル・フライデー、エディ・オコンタ、ベイビーフェイス・ポール等々が輩出しています。

58年にはナイジェリアのミュージシャン・ユニオンを組織し会長に就任(因みに副会長はクリス・アジロ)し、ナイジェリア音楽界の発展に寄与しました。
これだけの人物の単独盤がないなんて、音源が揃えば何とかしたいもんですねー。

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Highlife On The Moveを聞く⑧《ジンジャー・ジョンソン、エドムンド・ロス、細野晴臣》1/5

えー、FBでこんな事ばかり書いてるとアフリカにしか興味ないんじゃないかって思われそうですが、別にそんなこたぁ、ありません。気がむけばロックだって聞きます。不肖ワタクシ小学校6年で最初に買ったLPはビートルズでしたし、ブルース色濃いヤツとか、ザッパやカンはかなり好きですけどね〜。
カンはパンク登場以前からパンク精神を宿し、さらに音楽的にはアフリカ的ミニマル・スタイルが基盤のバンドではないか、というのがワタクシの意見なんですが、それはともかく、例えばローリング・ストーンズの69年ハイドパークのコンサートをご覧になった方(実際のライヴじゃないですよー)は、アフリカ音楽ファンにも少なからずいらっしゃると思います。
ぼくは昔テレビで見て「悪魔を憐れむ歌」に登場するアフリカ人ドラマーたちに興味を持ちました。ストーンズに呼ばれたのですから、それなりの活動や実績があると思いましたが、彼らについて詳しい事は全然分かりませんでした。
彼らについて知ったのは2005年にCD化されたジンジャー・ジョンソンの『アフリカン・パーティ』で、です。ストーンズと一緒のステージでトーキング・ドラムを叩き、ひときわ目を惹く人物、それがジンジャー・ジョンソンでした。
ハイドパークのコンサートが行われた69年といえば、英国のロック・ミュージシャンたちの間でアフリカ音楽が注目されていた時期。ジンジャー・ジョンソンのアルバムは67年に発売されたものですが、69年はオシビサ、ジンジャー・ベイカーのエアフォースたちが結成され、さらにアサガイ、デモン・ファズ、アキド、リーバップ、モノモノたちが次々に登場した事は前にも書きましたね。

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Highlife On The Moveを聞く⑧《ジンジャー・ジョンソン、エドムンド・ロス、細野晴臣》2/5
⬇続き
アルバム《Highlife On The Move》はジンジャー・ジョンソンの ”Highlife No.5” で始まります。「マンボ No.5」をモジったようなタイトルやバンド名の〈Afro Cuban Band〉 からもラテン志向がチラホラ。もう1曲の ”Brown Skin Gal” は有名なカリプソのカヴァーですね。
ジョンソンは1916年ナイジェリアのイジェブ=オデ生まれ。父はヨルバ、母親はブラジルの人でした。渾名のジンジャーは赤みがかった縮毛とソバカスから付いたそうです。幼い頃に両親と死別、姉に育てられ30年代半ば海軍に入隊。43年ロンドンに行き今度は英国海軍に再入隊。戦争後はロンドンに住みミュージシャンとして活動を始めます。
40年代後半に英国ジャズの大御所ロニー・スコットのバンドにパーカッション奏者として参加。さらに50年に英国ラテンの中心人物だったエドムンド・ロスのグループに加わり、ケニー・グレアムのアフロ・キュービスツにも在籍しています。
その後、自己のグループを組んで活躍。メロディスクには50年代半ば頃から吹き込み《Highlife On The Move》にはハイライフ調の楽曲が収められましたが、メロディスク録音にはマンボとかチャチャチャと付いた曲が結構あり、エドムンド・ロスにはかなり影響を受け尊敬していたようです。
エドムンド・ロスって軟弱ラテンじゃないの〜ってイメージが、ぼくら世代から上の方々にはあるかも知れません。若い方はもう知らないかな〜。
ペレス・プラードにも似たイメージがありますが、それでもプラードはマンボ誕生にも関わり、大歌手ベニー・モレーとも録音を残した重要人物である事は知られていると思います。
しかしエドムンド・ロスの50年代の面白さは、熱心なラテン・ファンも見過ごしているんじゃないでしょうか。彼は50年代の英国ジャズ、ハイライフ、カリプソ・シーンとも重なりあい、元々ハイブリッド感覚のある人で、本格派のマニア好みのタイプとは違いますから仕方ありませんけど。
しかし英国ラテン・シーンを支えたエドムンド・ロスをこの機会に見直して、アフリカ勢との交流を視野に入れておくのも無駄ではないと思います。
とっかかりに60年代に中村とうようさんがエドムンド・ロスをどう見ていたかみてみましょうか。66年発売のLPのライナーですが、読めますかね。
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Highlife On The Moveを聞く⑧《ジンジャー・ジョンソン、エドムンド・ロス、細野晴臣》3/5
⬇続き
さすがキッチリ分析していて、思ったより高い評価を与えていた事が分かります。後半には出来のいいアルバムやコマーシャルな部分へのダメ出しもさり気なく書かれています。またロスはベネスェーラ出身と書いた資料もありますが、本当はトリニダード生まれで17歳の時にベネスェーラに移ったんです。
実はロスの曲で個人的に忘れられないのが ”Talk To Me” というナンバー。ロスがいい感じの歌を聞かせるカリプソ調の曲ですが、さすがトリニダード生まれ、と言いたくなります。
この曲、最初に聞いたのは75年ですから17歳の時だった(©生源寺康成さん)。細野晴臣さんが『トロピカル・ダンディー』発売後にラジオでかけたのを覚えています。翌76年『泰安洋行』発売記念だったか、中華街でのライヴも確かオールナイト・ニッポンで放送。そのライヴでも ”Talk To Me” をカヴァーしていましたね。
細野さんがカヴァーするだけあって、この曲の背景には50年代英国のカリブ、アフロ、ジャズなどのフュージョン・シーンがあり、そんな英国メルティング・ポット・サウンドの雫の一滴が ”Talk To Me” だったと思います。その感覚を見逃さなかった細野晴臣さんの感性とセンス。やっぱり日本一の音楽家だと思います。
トリニダード生まれのエドムンド・ロスはカリプソの素養もあり、ドン・バレット楽団にも在籍してラテン音楽も経験、おまけに自己の楽団を40年に結成するまではファッツ・ウォーラーのサイドメンも務めていたという経歴の持ち主。とうようさんも書いていましたが、楽理もしっかり勉強し完璧なスタイルでありながら、楽しく親しみやすいというのがロスのいい所。
ロスは40年代、特に戦後ロンドンで成功を収めましたが、50年代にはカリブ、アフリカ移民も急増、もともとハイブリッド感覚を備えたロスもそんな英国のメルティング・ポット・サウンドに交わったと言えるんではないでしょうか。ちなみに50年代半ば英国を訪れ滞在したE.T.メンサーは、エドムンド・ロスに弟子入り、教えを受けたという話もあります。
*ボンゴを演奏しているのがジンジャー・ジョンソン。コンガはエドムンド・ロス。

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Highlife On The Moveを聞く⑧《ジンジャー・ジョンソン、エドムンド・ロス、細野晴臣》4/5

⬇続き
で、エドムンド・ロスを聞いてみましょうか。残念ながら ”Talk To Me” は見つからなかったんですが、ロード・キチナーの作品 ”London Is The Place For Me” を演奏している映像発見! カッコいいじゃありませんか。1962年、ビートルズ登場の年ですねー。

Highlife On The Moveを聞く⑧《ジンジャー・ジョンソン、エドムンド・ロス、細野晴臣》5/5

ジンジャー・ジョンソンに話を戻して、彼の録音を見てみましょう。50年代半ばから後半にメロディスクに以下の録音があります。

◆Melodisc
1327 Mambo Africana Batucada / Nightingale
1343 African Highlife / Oriental Star
1354 Kure, Kure / Mambo Contempo
1424 Highlife No.5 / Brown Skin Gal
1486 Bend Down, Pick It Up / Bambye Me
1499 Kolo Dumare Gdadura-Wa / Aworo Yo Yo Cuba / Highlife Mambo
1515 Egyptian Bint Al Cha Cha / African Jazz Cha Cha
1520 Won’t You Cha Cha / Wee Tom Cha Cha

マンボ、チャチャチャのタイトルが多いですね。あまり知られていませんが、ジャズとアフロとカリブのフュージョン的作品の下記10インチも残しています。かなりのレア盤ですが。

◆Melodisc 10”
MLP 508《Ginger Johonson, Fernand Calvet, Lionel Kerrien & George Browne / Contemporary Mood》
side A; Mambo Contempo / Soho Stomp / African Highlife / Mayfair Blues
side B; Fernand Cha Cha / Strand Rag / Honey Maid / Chelsea Choice (highlife)

さらに60年代にはジョージ・フェイム、ブライアン・オーガー、グレアム・ボンド達とも演奏。アフリカン・メッセンジャーズというバンドを再度結成し、英国のアフロ・ロック・ブームに繋がる活躍を始めます。もちろん50年代の英国ハイライフ時代を生き抜いて来た経験がモノをいったはず。

66年に初めて開催されたノッティングヒルのカーニヴァルにも出場して注目され、67年にインターナショナル・タイムスという新聞社主催のマルチ・イヴェント&コンサート ”The 14 Hour Technicolor Dream” にも出演しています。

ピンク・フロイド、アーサー・ブラウン、ソフト・マシーン、ザ・ムーヴ、ピート・タウンゼントなどなど錚々たる出演者たちの他、ポエトリー・リーディングや小野洋子さんも参加した現代美術の展覧会なども含めた総合的なもので、60年代英国カウンター・カルチャーの動きとして高く評価されています。

67年に発売した前述のLP『アフリカン・パーティ』もこれが機会となったのではないでしょうか。そして、こうした活動が目にとまりストーンズのハイド・パーク・コンサート出演となったのでしょうね。その67年のアルバム、改めて聞く価値のある質の高い内容だと思います。

◆MASQUERADE MQ 2001
Ginger Johnson and his African Messengers – African Party

ジンジャー・ジョンソンは1975年、訪れていた故国ナイジェリアで心臓発作のため亡くなりました。

*ラテン風味のハイライフ。ジンジャー・ジョンソンお得意のスタイルです。

Highlife On The Moveを聞く⑨《サウス・アフリカン・コネクション・インUK》1/3

長々とご紹介してきました〈Highlife On The Moveを聞く〉の連続投稿、余すところあと数回の予定となりました。え〜まだやんの、って声が聞こえてきそうですが、もうしばらくお付き合い頂ければ幸いです。

さて、今回取り上げるのは《Highlife On The Move》に収録された下記4組のグループ。あまり有名ではありませんが、メンバーや活躍歴などが重複していますので、まとめてご紹介しておきます。

◆Buddy Pipp’s Highlifers
●Ghana Special
●Georgina

◆Afro Rhythm Kings
●Donald’s Samba
●Marabi Dance

◆Awotwi Paynin & His Ghana Rockers
●Brown Skin Gal

◆The Quavers
●Money Money
●Kitch

英文解説によればバディ・ピップはガーナのセコンディ生まれで本名はジョージ・ウィリアムス。50年代ロンドンで活躍した後ガーナに戻り俳優兼歌手として活動、人気を博したそうです。彼は50年代のロンドンでアフロ・リズム・キングス、またハイライファーズというグループを率いていました。

同じくガーナはタコラディ出身のアウォトゥウィ・ペイニンもガーナ・ロッカーズというバンドで活躍していて、この2人が組んだグループがザ・クェイヴァースです。

上記に書き出した彼らの曲にはロード・キチナーの作品に「ブラウン・スキン・ギャル」などのカリプソ・カヴァー、 さらに ”Money Money” ほか他の曲も50年代の英国カリプソに範をとったスタイルがハッキリ聞け、これまで見て来た英国でのアフリカとカリブとの交流が確認できますね。

ところが彼らの録音にはちょっと毛並みの違う曲があって、最初に聞いた時にオヤっと思いました。

それが アフロ・リズム・キングスの ”Marabi Dance” という曲。題名にマラビとある通り、確かに南アフリカのスタイルを取り入れたナンバーです。

この曲、ジミー・マソラという南ア出身のピアニストの作品で、彼はザ・クェイヴァースにも参加しているそうです。

50年代の英国ハイライフ・シーンの中心はガーナ、ナイジェリア(シエラ・レオーネなども)のミュージシャンたちでしたから、正直こうした形で南アの音楽が関わっている事は知りませんでした。音楽的にも面白く、これはなかなか貴重な録音だと思いますね。

*バディ・ピップの未CD化録音。ゆったりとした演奏でジャズをしっかり勉強した事が分かりますね。質の高い演奏だと思います。

Highlife On The Moveを聞く⑨《サウス・アフリカン・コネクション・インUK》2/3

このマラビについて簡単に説明しておきますと、南アフリカのカラードと呼ばれた混血、黒人の様々な民族、モザンビークやジンバブウェなどの労働者たちが中心となって20年代に形成された大衆的音楽の総称です。

彼らは社会的底辺に位置し、シェビーンと呼ばれた非合法の酒場で様々な音楽を演じていたのですが、次第に融合し民族や階層を超えた都市ポップ音楽の性格を備えて行きます。これにより南アの最初の大衆音楽とも言われます。

しかしマラビは南アを代表するポップ音楽というより、その前段階、プロトタイプとでもいえるもので、中産階級に支持されるまでには至っていなかったようです。

そんな貧しい庶民と中産階級との音楽の架け橋的な役割を果たしたのがルーベン・カルーザという人物。彼は1895年生まれ。ダーバンで教師となり合唱音楽からラグタイム、ミンストレル、ブラス・バンドやペニー・ホイッスラーズなるグループも結成。クラシック的な要素にポップ感覚を加え、幅広く様々なスタイルの音楽にも挑戦し、南アの大衆音楽を新しい段階に進める役割を果たしました。

カルーザは1930年にロンドンでHMVに20曲を録音。それらはかつてヘリテイジでCD化されましたが、うち1曲がオーディブックの『南アフリカ音楽入門』で聞けました。

ちょっとCMになりますが、『南アフリカ音楽入門』は94年の発売でぼくも解説と音源提供で協力。とうようさんが選曲と曲目解説を行いました。

南アの社会は実に複雑で、その大衆音楽のスタート地点、原点をどこに求めるか解説を書く時には色々と悩みましたが、とうようさんは初期の鉱山労働者のダンス音楽、合唱音楽に着目し、そこでの音楽的創造・要素が南ア大衆音楽を貫いている重要な柱のひとつだと見抜いていて、非常に勉強になりました。

そして発売の時に、とうようさんがとても喜んでいたのを覚えています。もう20年以上前の発売ですが、南アの大衆音楽をトータルに概観したものは現在でも見当たりませんし、内容は聞き物揃いだと今でも自信を持って言えます。

で、この『南アフリカ音楽入門』のデッドストックが見つかり在庫分だけの再発売となって6月21日から一般発売されるそうです。お求めはお近くの渋谷エルスールさんで、よろしくどうぞ。

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Highlife On The Moveを聞く⑨《サウス・アフリカン・コネクション・インUK》3/3
⬇続き

さて、ロンドンで30年に録音したルーベン・カルーザについて、興味深い話がありますのでご紹介しておきます。
パームワイン音楽の開祖として有名なサムことクワメ・アサレが26年に英国ゾノフォンに録音した事は、もうご存知だと思います。この時サムと懇意になった南アフリカのミュージシャンがいました。名前をグリフィス・モッツェオラ(Griffith Motsieola)と言い、後にガロ・レコードのタレント・スカウト・マンとして活躍します。
サムのクマシ・トリオは31年に再び英国を訪れHMVに録音を行いますが、翌32年にズールー人の合唱団とガーナ人のトリオが合同のコンサートを行い、この時のズールー人出演者の1人がモッツェオラで、ガーナ人とはクマシ・トリオと言われているそうです。そしてコンサートの音楽監督がルーベン・カルーザでした。
これ、英国での西アフリカと南アフリカの音楽交流の最も早い例ですが、カルーザとクマシ・トリオという南アとガーナを代表する音楽家同士というのが本当にビックリです。
しかし30年代のカルーザや50年代のアフロ・リズム・キングス(ジミー・マソラ)という南ア・ミュージシャン達の英国での活動は、限られたものでした。英国で南アの音楽が本格的に注目を集めるのは60年代の事で、きっかけはミュージカル『キング・コング』の英国公演からと言えると思います。
南アは第二次ボーア戦争の後にイギリスの手に落ち、1910年に南アフリカ連邦としてイギリス帝国の自治領となります。当然イギリスとの関係は深いのですが、第二次大戦後のイギリス植民地からの移民の増加にも関わらず、南アからの移民はほとんど行われていません。
その理由は南アフリカ国内での差別と隔離、強制的な居住などにあるようです。1923年の原住民法は地方の黒人の都市流入を規制し、都市の黒人には郊外の専用居住区に登録、居住させるものでしたし、48年に政権与党となった国民党は、さらに異人種間結婚禁止法、人民登録法などなど多くの人種隔離政策を推し進めていたからです。
端的に言って黒人たちを低賃金で半ば奴隷状態に縛り付ける訳で、労働者達が職を求めて自由に海外に移民するなんて、ほとんど不可能だった訳です。
60年3月21日、ジョハネスバーグ近郊の町シャープヴィルで身分証明書の携帯を義務化するパス法に抗議するデモの群衆に対して、警察が発砲し69人が死亡。これを契機に南ア各地で抗議運動、暴動が発生、非常事態宣言が出されます。いわゆるシャープヴィル虐殺事件です。
この事態を受け国外に亡命する音楽家や、61年に英国で行われたミュージカル『キング・コング』の出演者たちはそのままヨーロッパに留まる事に。皮肉にもこうして英国で活動する南アのミュージシャン達が次第に注目されるようになって行きました。
と、ここから先を書き始めると収拾がつかなくなりますので、この辺で。いずれまた別の機会に色々とご紹介します。
南アフリカに人種差別法がなかったら、50年代の英国に南アの音楽家たちが自由に来ていたら、この英国ハイライフ・シーンも少し変わった形になっていたかも知れません。
*ルーベン・カルーザ

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Highlife On The Moveを聞く⑩《ブラック・スターのルーツを辿って》1/4

以前ご紹介したガーナの国旗を覚えていますか。中央に配置されている黒い星は「アフリカの自由」を意味しているって、もうご存知だと思います。これに因んだブラック・スター・バンドという名前のグループが〈Highlife On The Move〉に収録されていますね。
◆The Black Star Band
●Obaa Amponsa Pandogo
●Abrokyiri Awo Yi
●Ekuona Rhythm
解説によれば62年から66年までロンドンで活躍したそうですが、このバンド、メンバーが凄いんです!
後にオシビサを結成する事になるテディ・オセイとソル・アマルフィオ、そしてアフロ・ファンクのファンにはお馴染みエボ・テイラーも在籍、というか彼が中心になって組まれたバンドだそうです。
実は彼ら以上のビッグネームなのがハイライフのコンポーザーとして著名なオスカモアことオスカー・オフォリ。彼は200曲近い作品を作りメンサーを始め主要なハイライフ・バンドに提供、録音された60曲あまりのほとんどがヒット。ギタリストでもあり、パームワイン音楽の重要人物アピアー・アジェクムのバンドにも参加した経験があるそうです。
さらにシンガーのジョス・エイキンスはE.T.メンサーのテンポスを始めスターゲイザーズ、ブロードウェイ・ダンス・バンド、レッド・スボッツ、メロディ・エイセズなど多くのバンドで歌い非常に人気のあった名シンガー。
そしてエディ・クァンサーとナイジェリア人のサミー・オボットの2人はというと、サミーはブロードウェイ・ダンス・バンド、エディーはスターゲイザーズのリーダーだったんです。
もともとテディ・オセイとソル・アマルフィオはスターゲイザーズの出身でしたし、エボ・テイラーとジョス・エイキンスはスターゲイザーズとブロードウェイの両バンドに在籍していました。つまりブラック・スター・バンドはスターゲイザーズとブロードウェイのメンバーたちが合体して生まれたようなもの。
〈Highlife On The Move〉に収録された3曲は50年代のハイライフ・スタイルを基盤にしつつも、よりジャズ的なアプローチも聞かせてくれ、そこに新しい60年代の感覚が聞き取れます。
なかでも面白いのが ”Obaa Amponsa Pandogo” で、これはパームワイン音楽の古典的名曲「ヤー・アンポンサー」のカヴァー・アレンジ。アピアー・アジェクムとも演奏していたというオスカモア・オフォリのアイデアだったかも知れません。
英文解説で活動期間は66年までとなっていますが、その後もブラック・スター・サウンド名義で67年にシングルが出ていますし、アフロ・リクエストとアフリカン・ミュージック・エクスプロージョンからはLPも出ています。
◆Afro Request SRLP 5029 ”Ghana Ndwom”
◆African Music Explosion AME 91.05 ”Ghanain Highlife Beat”
前者はいま手元になく未確認。後者はブラック・スター・ライン・バンドとなっていて、音楽監督はオスカモア・オフォリ。なかなかいい曲もあるんですが内容はまずまずと言った所かな。こちらは70年代半ば頃の発売で、メンバーはかなり変わっている模様です。

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Highlife On The Moveを聞く⑩《ブラック・スターのルーツを辿って》2/4
⬇続き

という事でブラック・スター・バンドの前身とも言えるスターゲイザーズとブロードウェイ・ダンス・バンド、今回はこの2組について少しご紹介しましょう。

まず、スターゲイザーズはガーナ内陸の都市クマシの結成。リーダーは最初グレン・コフィ、後にエディ・クァンサーに替わりました。グレン・コフィはもともとE.T. メンサーのテンポスでトロンボーンを担当していた人物です。

グレン・コフィの後にリーダーとなったエディ・クァンサーはクマシ出身でテディ・オセイとは音楽仲間だったそうです。兄がアクラで軍医をしていた関係で両親はアクラの軍学校にエディを送り、そこで軍隊ラッパを習い、後にトランペットを勉強するきっかけに。
しばらくしてクマシにもどったエディは地元の人気バンド、トップスポッターズに加入して音楽修行を積んで行きます。

ある日クマシでショウがあった時、アクラから人気バンドのリズム・エイセズがやって来ました。彼らはトランペットのエディの演奏を気に入り、グループに加入してアクラに来ないかと誘います。こうしてエディはリズム・エイセズへと転身する事になりました。

リズム・エイセズは55年の結成。リーダーはスパイク・アニャンコーで、彼もまたE.T. メンサーのテンポス出身。メンバーにはベナン出身のイグナンス・デ・スーザ(フランス語読みですとイニャンスですが)にナイジェリア人のジール・オニイア、ベイビーフェイス・ポールたちがいました。
ジール・オニイアはボビー・ベンソン、E.T. メンサーのバンドで活躍、〈Highlife On The Move〉にもジョン・サントス・マーティンス(ボビー・ベンソン時代のバンド仲間)との2曲が収録されていますね。ベイビーフェイスもやはりテンポスにジールと共に在籍していたバンド仲間です。

リズム・エイセズはセナフォン・レーベルに録音し人気を得ていましたが、55年暮れのナイジェリア・ツアーの時にオニイアとベイビーフェイスは独立してしまいます。代役を立てて活動していたリズム・エイセズですが、そんな時クマシで出逢った才能あるトランペッターがエディ・クァンサーだったという訳でした。

エディ・クァンサーがリズム・エイセズで活動したのは1年半ほどで、故郷クマシに戻った時に、ある実業家がスポンサーになった新バンド結成の話が舞い込みます。楽器一揃いの資金提供とリズム・エイセズよりいい報酬の提示に話がまとまり、結成されたのがスターゲイザーズ。

ヴォーカルにジョー・メンサー(昔、日本でもソロ・アルバムが発売された事もあります)とジョス・エイキンス。そして以前スティーヴ・ローズの所でご紹介したナイジェリアNBCオーケストラ出身のスタン・プランジも在籍していました。
後にオシビサを結成するソル・アマルフィオ、お馴染みエボ・テイラーもスターゲイザーズのメンバーでした。

結成間もない58年にデッカからSP盤が発売され、すぐに人気バンドとなり順調に活動。ところが詳細は不明ですが、リーダーのエディはスターゲイザーズを辞し、新しくグローブマスターズというバンドを率いていますから、スポンサーと金銭面で揉めたのかも?
それが60年の頃で、スターゲイザーズのリーダーはトロンボーン奏者のアドリブ・クワク・アニムに渡されます。アニムはアレンジや作曲に才能を発揮。充実した作品を数多く発表して、第二黄金期とでも言える時期を迎えます。この頃エボ・テイラーもバンドに大きな貢献をする存在だったそう。
ブラック・スター・バンドは英国で62年から活動を始めていますから、エボ・テイラーがスターゲイザーズに居たのはその頃までとなりますね。
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Highlife On The Moveを聞く⑩《ブラック・スターのルーツを辿って》3/4
⬇続き

一方のブロードウェイ・ダンス・バンドは58年にタコラディでナイジェリア人のサミー・オボットにより結成。タコラディのゼニット・ナイト・クラブが本拠地で、このクラブのオーナーがブロードウェイのスポンサーだったんです。
当時メンサーのテンポスでもバンド編成は10人前後でしたが、ブロードウェイはいち早くビッグバンド化を進め多い時には16〜17人近いメンバーを擁していたようです。
クマシではスターゲイザーズのリーダーだったエディ・クァンサー率いるグローブマスターズがビッグバンド化を進めていましたが、次第にブロードウェイの人気が高まり、ガーナ初のハイライフ・ビッグバンドと言われています。
代表的メンバーはスターゲイザーズと重複、活動期間も重なりますので誰がいつ在籍したのか詳細は判然としませんが、ヴォーカルはスターゲイザーズと同じくジョス・エイキンスとジョー・メンサー。このメンサーとギタリストのエボ・テイラーは先にブロードウェイに在籍していたようです。
後にオシビサのメンバーとなるマック・トントーは62年に加入、そして63年頃にスターゲイザーズから移って来たのがスタン・プランジでした。
ガーナが独立して大統領クワメ・ンクルマーの独裁的な政策は次第に色濃くなってきますが、60年に全ての音楽家は半年間ガーナのアート・カウンシルでアフリカ音楽の勉強をするようにとのお達しが。ネグリチュード思想に発するアフリカ文化の意識向上を目指したのでしょうね。気持ちは分かりますが、奨励ならともかく政策で決める事ではありません(これはワタシの意見)。
というものの、ガーナの様々な民族的音楽がポピュラー音楽に活かされたのも事実です。
ともあれ、この命令を最初に実践したのがブロードウェイ達で、これがキッカケかンクルマーのお気に入りとなり、また60年代初頭にはガーナのナショナル・バンドと言われるほどの人気を誇りました。ンクルマーに随行してモスクワ、ベイルート、ハルツーム、ロンドンなどへも訪れています。
しかし半年間に亘るアート・カウンシル勉強会への参加はバンド活動を阻害、バンドのオーナー氏はメンバーへのギャラの不払いやバンド名の使用差し止めなどトラブルに発展する事態に。
結果として別のスポンサーが楽器一式を買い取り、63年4月、サミー・オボットに替わって新しいリーダー、スタン・プランジの元、名前も新たにウフルーズ・ダンス・バンドとして再出発したのでした。
ウフルーズはンクルマーとの関係も良好だったようで、アクラにヘッド・オフィスを構える程。また、ンクルマー失脚後も変わらぬ高い人気を維持し、70年代後半まで活動(スタン・プランジは72年までリーダーを務めました)しています。

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Highlife On The Moveを聞く⑩《ブラック・スターのルーツを辿って》4/4

⬇続き
このように、もともとはE.T. メンサーのメンバー達がリズム・エイセズ、スターゲイザーズ、ブロードウェイ・ダンス・バンドを結成。さらにそこから英国でブラック・スター・バンドが生まれたという訳ですね。
しかし話はここで終わりません。さらにそこから生まれたのが、アフロ・ロック・バンドとして名を馳せたオシビサです。
テディ・オセイ、マック・トントー、ソル・アマルフィオに短期間ですがエディ・クァンサーも加わっていたそうです。英国でのアフロ音楽の注目を背景にブレイクしたオシビサは、来日公演も行うなど世界的に活躍しました。
1900年代初頭、元はガーナの黒人上流階級のダンス音楽として生まれたハイライフが次第に大衆化、50年代にE.T. メンサー達がアフリカ初の現代性を備えたポップ音楽として完成させ、さらにそれが発展してオシビサのアフロ・ロックに流れ込む。
こんなトータルな視点でハイライフを眺めてみるのも面白いんじゃないかなって思うんですが。ルーツを辿ると未来も見えてくるんですよ、なんつッて。
もちろんハイライフの長い川の流れはアフロ・ロックだけに流れ込んでいるのではありません。そう、アフロ・ビートにもその流れは受け継がれています。
次回は〈Highlife On The Move を聞く〉最終回として、ヴィクター・オライヤ、若きフェラ・クティについてアレコレと。
*オシビサ来日公演のパンフレットからメンバー紹介欄。

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Highlife On The Moveを聞く 最終回 1/4

長々と書いて来ました《Highlife On The Moveを聞く》の連続投稿、どうにか最終回まで辿り着く事が出来ました。最後はヴィクター・オライヤとフェラ・クティ初期の活動について書いて終わりにしましょう。
ヴィクター・オライヤは1930年ナイジェリア東南の都市カラバール生まれ。裕福な家庭だったようで、学校でフレンチ・ホルンやチューバなどを習い音楽の道に進み始めます。やがて両親の反対を押し切りレゴスに出てミュージシャンとなり、最初はエクポ・バンドという名前のストリート・バンドで演奏。続いてサミー・アクパボットのグループに参加します。このサミー・アクパボットという人物、ハイライフに後年はクラシック作品まで手掛けた才人で、初期の録音はなかなかの聞き物です。サミーのバンドで腕を磨いたオライヤはレゴス・シティ・オーケストラ、さらに52年にボビー・ベンソンのバンドに加入。といってもベンソンは幾つかバンドを持っていて、オライヤが参加したのはアルファズ・カーニヴァル・グループというベンソンのセカンド・バンドだったようです。
その後リーダーとしてクール・キャッツを結成しますが、以前クリス・アジロをご紹介した時にそのイキサツはお話しましたね。簡単に触れておきますと元々は英国でクリス・アジロが結成したバンドがクール・キャッツの始まり。アジロは54年ナイジェリアに戻りクール・キャッツを再結成。そこに参加したのがオライヤで、アジロが抜けた後に残ったメンバーとバンドを引き継いだという訳でした。オライヤ自身はクール・キャッツは自分が結成した、という表現で語っているようですけれど…。
オライヤがリーダーとなったクール・キャッツはナイジェリアのインディー・レーベルの草分け、バデジョズ・サウンドに吹き込みを始めます。このレーベルについては昨年のトゥンデ・キングやボビー・ベンソンの項でも触れましたが、オーナーはE.O.バデジョで40年代からレコード販売を行いレーベル設立は47年。オランダ・フィリップスとも関係があり、オライヤの録音はバンドを受け継いで暫くした頃、恐らく55年頃からと思われます。
遠藤斗志也さんの主宰するホームページにオライヤのディスコグラフィー(http://endolab.jp/endo/EAOlaiya.html 作成はジョン・ビードル)がありますね。そこにバデジョズ録音の下記SP盤1枚が掲載されています。
◆BADEJO’S SOUND STUDIO
BBA 150   Victor Olaiya & His Cool Cats Orchestra – Odale Ore / Mofe Muyon
しかしオライヤのバデジョズ・サウンドへの録音は、ぼくの把握しているものだけでも下記のものがあります。
◆BADEJO’S SOUND STUDIO
BBA 126 Abanije / Omolanke
BBA 134 Coolcats Invitation / Yabonsa No,2
BBA 142 Coolcats Victory / Bonsue
BBA 146 Felele / Eko Gbole O Gbole
BBA 155 La-Ba-La-Ba / ?
BBA 160 Kendi Mama / Akwa Mberi Nugo
BBA 194 Omo Lere Aiye / Ngbaduga
ナイジェリアのエヴァーグリーン・ミュージカルから発売された5枚組CD “The Footprints of a Victor …Since 1951” には上記の録音から何曲か収録されており、他にもバデジョス録音と思われる楽曲がありますので、全体の録音はまだまだあると思います。
ぼくの手元には上記の内3枚がありますが、BBA126は両面ともE.T. メンサーの影響が色濃いスタイル。BBA146はレーベルにフィリップスのスタジオで録音と記載されています。ナイジェリア・フィリップスのスタジオは57年に開設されたと言われていますから、その頃の録音と推察されます。”Eko Gbole O Gbole” はエレキやパーカッションの伴奏も素晴らしく、メンサー流スタイルから次第に独自性を発揮して来た時期かなと感じます。BBA160の ”Akwa Mberi Nugo” はエレキがジュジュっぽいところもあり、ガーナのハイライフとはかなり感覚の違いが出てきていますね。
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Highlife On The Moveを聞く 最終回 2/4
⬇続き
オライヤは57年頃からフィリップスでもレコードを発売して行きます。同時期にバデジョズでも録音を続けていますから、50年代後半は2つのレーベルを股にかけて活動していたようですね。
フィリップス録音は前述のジョン・ビードル氏作成のディスコグラフィを参照して下さい。ここではそのディスコグラフィに漏れているものを追加情報として掲載しておきましょう。まずフィリップスで発売されたSP盤は以下のものがあります。
◆Philips 78’s
82151 Mumude / Wa Sun Laya Mi
82211 Anyin Ga Na / Ola Iyas Incantation
82254 Baako Daya / Mr. Judge, Show Me The Way
82304 Kiriji / Lafia We Lawani
82357 Pambotoriboto / Moonlight Highlife
82397 Feso Jaiye / Asian Udo
82447 Ko Forun / Papingo Davalaya
さらに下記のシリーズで発売されているSP盤がありますが、これはバデジョス・サウンドの音源を使用して再発した物のようです。
◆Philips 78’s (Reissue of Badejo’s Sound Studio Recordings ?)
103001 Yabonsa No,2 / Cool Cats Invitation
103006 Trumpet Highlife / Cool Cats Lips
103007 Cool Cats Victory / Bonsue
103011 Felele / Eko Gbole O Gbole
103012 Mofe Muyon / Odale Orea
他にシングル、EPでディスコグラフィー未掲載のものは下記の通りありました。
◆Philips 45’s
PF 382548 Omo Pupa / Kale San Wa
◆Philips EP
420 015PE Top Hits From Nigeria vol,1 – Omo Pupa (Victor Olaiya) / Mama De For Kumba (Mayor’s Dance Band Onitsha)
/ Wayo (Kennytone and his Western Toppers Band) / Solo Hit (Eastern Star Dance Band)
420 021PE Saturday Highlife – Come Again (Stephen Osadebe and his Nigeria Sound Makers) / Kosowo Lode (Victor Olaiya)
Ibi Na Bo (Rex Lawson) / 750 x 20 (Roy Chicago)
またエヴァーグリーン・ミュージックから発売された5枚組CDの収録曲も記載しておきましょう。曲名の前に「*」マークが付いているのはバデジョス録音と思われるものです。
◆Evergreen Music Company 5CD “The Footprints of a Victor …Since 1951”
Disc 1 Oro Ajoso / Mama E / Opataricious (Victor Olaiya’s Incantation) / Halleluyah (Jesu Feran Mi) /Ewele We Ku Ewewle / Pariboto Riboto / Gbemisola / Anya Koko / Kale Sanwa J’owuro Lo / Ewa / Adogan Njiya / Tokunbo / Feso Jaiye / *Omo Lere Aiye / Ogbere Ngwoko
Disc 2 Trumpet Highlife / *Mofe Muyan / Soro Jeje F’arugbo / Yabonsa / Mr.Judge / Adelebo To Nwoko / Africa / *Kendi Mama / Buttom Belly (Papingo Davalaya) / Moonlight Highlife / Passport / Essi Nana / Ewo (Okokonu) / Ekiti Na Bimi / *Abanije
Disc 3 Invitation Highlife / Omo Pupa / Iye Jemila / Oruku Tindi Tindi / Se Fun Mi / Laba Laba / *Omolanke / Aiye Yidun / *Akwa Mberi Nugo / Iyawo Patako / Ba Ko Daya / Atota / Feferity / Mase Mase / Lekeleke
Disc 4 Ilu Le / Fami Mora O (Gbasoledeo) / Ore / Lafia We Lawani / Adelebo To Nwoko / Ariya Kabiyesi / Tina Mate / Erinbot Eyeni / Iye Jemila (Old Release) / Aiye Le E Rora / Mo Fe Ran Re Ore / Asian Udo / Odofu Napie / Woman Dey Enjoy & Man De Suffer / Aigana
Disc 5 Eko Gbayi Ogbeye / Jojolo / Ajike / Aiye Soro / Sise Ore, Ko Ma Se Sole / Keke Reke / Olaiya’s Victory / Mumude / Oro Kele Kele / Ma Danwo / Nigeria Republic / Iyan / Olofofo / Ole Nrunmu / Felele (Instrumental)
以上、上記の情報は本投稿後にジョン・ビードルさんにメールしておきます。
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Highlife On The Moveを聞く 最終回 3/4

⬇続き

オライヤのハイライフは、その初期にはE.T. メンサーの影響が見いだせますが、すぐにナイジェリア感覚というかガーナのハイライフとは違うスタイルを打ち出して行きます。ジュジュっぽい感覚とハイライフのミックスや、どこかのんびりゆったりした泥臭い雰囲気もナイジェリアで受けた理由かもしれません。また言葉遊びのような歌詞のフレーズもキャッチーで面白く、楽曲を活性化させるのに効果を発揮してますね。そんな才能を備えたオライヤはすぐに人気バンドの仲間入りを果たし、60年のナイジェリア独立時には式典で演奏を行ったり、ルイ・アームストロングが来演した時には共演も果たしたりしたそうです。
音楽的にはジュジュとハイライフのユニークなミックスを度々試みていて、彼のひとつの功績としてぼくは高く評価したいと思います。そんなひとつの完成形と思えるのがフィリップス録音の “Kale San Wa” (先の5CDは”Kale Sanwa J’owuro Lo”と記載)。景気のいいハイライフ・スタイルと思っていると突如トーキングドラムやジュジュのブレイク時のコーラスまで導入、見事にハマってます。しかもこの曲はサニー・アデが78年のアルバム《Praivate Line》で、本格ジュジュ・アレンジでカヴァーしてるんですから面白い。またE.T. メンサーとの共演盤でも、その役目を立派に果たしていましたね。
オライヤは2012年に芸能活動60周年を記念して盛大なイベントを開催しました。エヴァーグリーンの5枚組CDボックスもその一環として発売され、イベントにはエベネザー・オベイ、サニー・アデ、ファタイ・ローリング・ダラーもお祝いに駆けつけました。ジュジュ系アーティストがしっかり来ている事に、やっぱりオライヤとジュジュとの親しい関係が窺えます。
⬇次へ
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Highlife On The Moveを聞く 最終回 4/4
⬇続き

ところでフェラ・クティは、その音楽活動の最初期にヴィクター・オライヤのクール・キャッツに参加していた事は有名ですね。親友のJ.K. ブライマーがクール・キャッツのシンガーを務めていて、彼に誘われて歌手として参加したようです。それは56年頃の事ですからオライヤがバデジョズに録音をしていた時期と重なります。当然、参加していたフェラも一緒に録音した可能性は否定出来ないんですが、ん~実際のところどうなんでしょうか。
J.K. の想い出話にも触れられていませんし、フェラ自身もオライヤとの録音については語っていませんから可能性は低いとは思いますが。しかしバデジョズ録音の全貌も未だ不明ですし、世の中何が起こるか分かりません。まあ、これは今後のお楽しみかなー。
さて、オライヤのバンドを辞してフェラがロンドンに向かったのは58年。当時、フェラは音楽の勉強の為トリニティ・カレッジに通ったと言われていますが、学校の勉強にはあまり熱心ではなく、やはり色欲渦巻くナイトライフにご執心だったみたい。とはいえ音楽に関してはロンドンのジャズ、カリブ音楽にかなり興味を示していたようです。《Highlife On The Move》の英文解説によれば、そんなロンドンのクラブ・シーンを案内したのがフェラの友人でピアノの先生だったウォレ・バックナー。
ウォレ・バックナーはジール・オニイアとコリコ・クランというジャズ・グループを組んでいた事もあり、長く英国で活動していたようです。またアフロ・ファンクのミュージシャン、セグン・バックナーの叔父さんに当たるそうです。フェラとバックナーはハイライフ・レイカーズというバンド名でメロディスクに録音。それがフェラの初録音で今回リイシューされた”Fela’s Special” ”Aigana” の2曲。録音は59年末、発売は60年初頭でした。”Fela’s Special” は最初の奥さんレミ・テイラーに捧げた曲。”Aigana” はヴィクター・オライヤ作品のカヴァーです。
オライヤのオリジナルは ”Anyin Ga Na” のタイトルで57年にフィリップス吹き込まれていますが、この曲、オライヤがライヴのラストに演る定番曲で ”Anyin Ga Na” は「家に帰ろう」という意味。つまり一晩中続いたライヴの終わりを告げるサインだったという事です。しかし英国のナイジェリアン・コミュニティの人達にとって「家に帰ろう」とは、故郷ナイジェリアを想い出させ郷愁を誘う楽曲でありました。
この後、フェラはハイライフ・レイカーズをクーラ・ロビトス(ヨルバ語で Cool Cats の意味)と改名、旧友のJ.K. ブライマーをドラムに、引き続きウォレ・バックナーがピアノを、さらに名前は不詳ですがカリブ系のミュージシャンたちも加わり彼らは英国のハイライフ・シーンではかなり評判となっていったようです。
そこでフェラは自身のレーベルRKを61年に立ち上げ録音を行います。これは英国では発売されなかったようで、ナイジェリアで6枚ほどのシングルとしてリリースされています。63年にナイジェリアに戻ったフェラはNBCのプロデューサーの職につき、再度クーラ・ロビトスの結成に動きます。
ババ・アニの愛称で知られるレカン・アニマシャウンは当時クリス・アジロの紹介でNBCオーケストラに在籍しており、バンド結成の話を聞きつけオーディションを受けクーラ・ロビトスに参加した事はアジロの所で触れましたね。またトニー・アレンには以前電話インタヴュー(ミュージック・マガジン1999年11月号)で話を聞きましたが、クーラ・ロビトス加入前はウエスタン・トッパーズというバンドに在籍(恐らくキング・ケニートーンのバンド。ツイスト・スタイルでヒット)していて、やはりフェラのオーディションを受けて加入したと語ってくれました。
この時フェラが目指したのはジャズとハイライフのミックス、当時はハイライフ・ジャズと呼んでいました。ここから先はもうクドクド書く必要はありません。やがてジェラルド・ピノのJBファンク・スタイル、さらに渡米してマルカム・X等の黒人運動に刺激されパン・アフリカニズムに目覚め、独自のスタイル=アフロビートを完成させていくのでした。このようにフェラの音楽の根底には、50年代のハイライフが大きく横たわっているとご理解頂けると思います。
Highlife On The Move !! E.T.メンサーとテンポスが革新したアフリカ初の現代音楽ハイライフは躍動を続け、アフロ・ロック、アフロ・ファンク、アフロ・ビートなど様々な現代アフロ音楽へと展開していったのでした。
まだまだ触れていない部分もありますが、これにて連続投稿《Highlife On The Moveを聞く》はおしまいです。長々とお付き合いありがとうございました!
*卓球を楽しむフェラ。パンツが脱げそうだよ~
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Highlife On The Move を聞く 番外編

次回投稿準備でコンゴのSP整理してたら、何気で目に留まったオピカのレコ袋。ガーナとナイジェリアでオピカが録音・配給していたカタログが載ってるんですが、うひゃ〜ボビー・ベンソンがあるでないの!
いやー灯台下暗し。謹んで追加情報とさせて頂きます。
◆Opika
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